【Kissの会 ゲスト投稿no.67】        「太田市と新田氏」

2021-03-01 (7期生) 亘 浩さん

 

私の住む太田市は、新田義貞公が生まれ育った関係で新田一族関連の施設が多く残されています。鎌倉への挙兵(1333年)の地である生品神社と成人して住んだとされる反町館跡(現照明寺・大館氏の城跡との説もあります)のほか多くの史跡があります。

出陣にあたり、義貞公が生品神社境内から鎌倉へ向けて矢を放ち、その矢が止まったとされる「矢止めの松」、休憩の際に松に兜を掛けたとされる「冠かけの松」など、多くの物語のなかの「松」が今もあります。鎌倉幕府討幕後、新田義貞公は後醍醐天皇の南朝方の中核を担うことになるが、足利氏に従い北朝方となった岩松氏らと対峙することになり、義貞公は越前藤島(現福井市)で1338年に戦死しました。

 

正月のテレビでお城の特集があり、日本100名城「金山城」についても紹介されましたが、1469年新田岩松氏により築城されました。金山城は、天守閣が作られるより古い戦国時代の城であり、標高239mの金山の地形を利用して造られた「山城」です。戦国時代ではめずらしく石垣や石敷きが多用されており、現在は大手虎口の石垣が復元されています。

反町館跡


金山城 石垣

金山のふもとには、平成21年に金山城跡ガイダンス施設が設置されています。岩松家は新田氏と足利氏の両系統の血を引き継ぎ、足利義純の子時兼を祖とします。家臣に権力を奪われ、北条氏に敗れ金山城は1590年に廃城になりました。

 

市内に「徳川」の地名があったことから、徳川家康公が「わが遠祖は源氏の嫡流新田の一族徳川氏である」として、徳川郷を祖先の地としました。その関係で、徳川家にゆかりのある寺院や東照宮などが残されています。


新田岩松家守純氏は、1590年徳川家康関東入部の際に、子豊純と共に川越城で拝謁し、家康の命により世良田村(現太田市世良田町)に居を移し、その後現在の太田市下田島町に屋敷を移しました。新田岩松家は新田氏という徳川家と血脈を通ずる家系の由緒を尊重されて大名に準ずる格式を与えられ、徳川家は自らの出自を征夷大将軍職にふさわしい血筋とするために、源氏の系譜を引く新田氏の家譜につなげたとされています。

新田岩松家は、ネズミ除けの利益があるとして地域の養蚕農家から依頼され、多くの猫絵を描くことにより「猫絵の殿様」と呼ばれています。我が家にも1点新田俊純氏の猫絵(左写真)があります。名は「清和類子新田嫡宗源俊純」とありました。もっと違う舞台に立つことを願って書き続けたのかもしれません。

 

NHK大河ドラマ「太平記」が1991年に放送された頃は、地域の施設に多くの人が訪れましたが、今は静かにゆっくり観覧できます。早く新型コロナウイルスが収束して、安心して旅行ができる日が来ることを願っています。

 

以上