【Kissの会 ゲスト投稿no.86】      「10年後の返礼」

 2022-08-01 (7期生) 酒井 早苗さん

 

旅行仲間と私がウクライナの首都キエフ(現キーウ)を訪れたのは秋の終りでした。ロシア語がチンプンカンプンの私たちは,市内観光をするために無理は承知で日本語ができるガイド派遣を旅行会社に依頼しました。

 

当日、待ち合わせ場所の白亜の博物館の入り口に立っていると東洋系の初老の女性が現れました。

「おはようございます」

「私は日本人ではありません。朝鮮人です。東北部、満州の近くの出身です。子どものころ、日本語を勉強させられました。なぜ、ウクライナに朝鮮人がいるのか不思議でしょう?日本の後にソ連が地域を支配するようになったら、村ごとウクライナに強制入植させられたからです。それから今日までウクライナで暮らしています。夫はウクライナ人です」彼女の表情や口調は淡々とし、心の内を知る手掛かりは得られませんでした。この女性がガイドのキムさんでした。なぜ、このような自己紹介をしたのか、違和感が残りました。

 

市内観光のスタートは、待ち合わせ場所の博物館。建設にはシベリアに抑留されていた日本人捕虜がウクライナまで運ばれ、強制労働によって完成したこと、現在も不具合が無く、日本人の技術の優秀さ、勤勉な働きぶりの成果であることを私たちに率直に語りました。自己紹介の強烈な印象とは裏腹に、彼女の飾り気のなさや説明に見られた聡明さにむしろ好感を抱きました。 

 定番の独立広場、記念碑、玉ねぎ型の金色の尖塔が輝くロシア正教会(現ウクライナ正教会)の寺院を訪問した後、最後に案内されたのは共同墓地でした。そこには日本に帰ることなくウクライナで亡くなった抑留者が埋葬されていました。「日本に帰る」と言われて貨物列車に乗せられ、一か月を超える過酷な移動。そのあと、シベリアより遥に日本から遠いウクライナに連れてこられたと知った時、抑留者の失望はいかばかりだったでしょう。帰国の思いを抱いて亡くなった方々の無念さが重くのしかかってきました。 

右写真:「参考資料:ウズベキスタンの日本人抑留者墓地」


その一方で、私はキムさんの胸の内を思わずにはいられませんでした。彼女も望郷の思い止み難くとも帰ることができませんでした。そもそも彼女の故郷はこの地球のどこにあるでしょう。かつて自分たち民族を抑圧した国の兵隊たちの悲惨な末路を物見遊山に訪れる日本人観光客に説明するめぐり合わせ。しかも、いやいや習った日本語が役に立ち、生活の糧になっている皮肉。抑留された日本兵たちもキムさんも自分たちでは抗しきれない大きな力に翻弄され、穏やかで平和な日常を奪われた方々です。争いのために、とりかえしのつかない代償を払わされたのは庶民です。  

 キムさん、偶然、出会ったあの日から、早くも10年以上経ちましたね。あなたが意図したかしなかったかは分かりません。でも、あなたのお陰で、生き延びて、体験を伝えることの意味に触れることができました。いち旅行者に過ぎない私をキムさんは覚えていないでしょう。でも、私はあなたを忘れたことはありません。そして今、あなたを知らない方々にあなたの存在を伝えています。これが、あなたが私たちに話してくださったこと、無言で語っていたことに対する私の返礼です。現在の過酷な状況でのあなたの生活は、察するに余りあります。どうかどうか生き延びてください。                 

左出所: https://www.supercoloring.com/ja/nurihui/pikasonoping-he-nojiu