Saitoの投稿

【Kissの会  第175回投稿】  「秋の手仕事」

2023-11-21

今年の夏の暑さといったら。

「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉を支えに、祈るような気持ちで秋の訪れを待ちわびた。10月に入って、ようやく空の高さや雲の形に秋の気配が漂い始め、秋の実りを知らせる便りが届くようになった。落花生・新米・栗。秋は美味しいもので溢れている。この時期、私は秋の手仕事に専念する。

手仕事1〈栗の渋皮煮〉

10月8日、まずは高麗まで利平栗を買いに行く。今年は巾着田の彼岸花も栗の生育も遅れ、花の見頃も栗の収穫も2週間ほどずれ込んだが、大きくてツヤツヤした栗を手に入れることができた。帰宅後すぐに仕事にかかる。

 

第一段階は鬼皮剥き。一昼夜、水につけおき、柔らかくなった鬼皮を丁寧に剥く。これがひと仕事なのだ。渋皮を傷つけないように細心の注意を払う。傷が付いたら最後、栗は中から崩れてしまう。毎年挑戦しているが、結構な確率で傷をつけてしまう。その時は潔く諦めて、渋皮をきれいに剥き、栗おこわにする。1kgの鬼皮をむくと包丁を握った手に赤い豆ができている。

 

第二段階は灰汁抜き。重曹を入れた湯で5分ほど煮ては水にさらし、水の中で渋皮を傷つけないようにぼそぼそとした筋を取る。これを3回繰り返し、最後に重曹抜きの熱湯で湯がく。 


最後は栗がかぶる位の水に、分量の半分のグラニュー糖を入れ沸騰させてから弱火で20分煮る。さらに残りの砂糖を全部入れ30分煮る。竹串がすっと通ったら火を止める。しばらくそのままにして粗熱をとる。半分は瓶に詰め、残りの半分は汁ごと冷凍にし、お正月のお節料理に添える。時間と手間がかかるが、年に一度の栗仕事は秋を感じる一大イベントなのだ。

手仕事2〈リンゴジャム〉

10月中旬、寒河江産の紅玉が届いた。紅玉は地味な形状ながら、酸味と甘みが強く、かぶりつくと他のリンゴでは味わうことできない爽快感が口いっぱいに広がる。しかし、焼きリンゴ、ジャム、コンポートのように熱と砂糖を加えることで、紅玉は本領を発揮する。ジャムやコンポートにして保存すれば、長く楽しむことができる。

 

5kgの半分はジャムにする。1個を4等分し、厚めのいちょう切りにして、砂糖(私の場合通常のレシピの半量)にレモンを加えて煮る。無農薬なので皮も一緒に煮るとピンク色のジャムの出来上がり。熱湯消毒した瓶に詰めて蓋をして保存する。1.5kgはコンポートにして、パイにしたり肉と一緒に調理したりして食す。紅玉は意外と鶏肉や豚肉と相性が良いのだ。

 

残り1kgは生食用として新聞紙にくるみポリ袋に入れて冷蔵庫へ。毎朝2分の1個を皮ごと食べる。朝のリンゴは病気を遠ざけるとか。


手仕事3〈落花生の塩茹で〉

ご多分に漏れず、落花生の生育も遅れ、今年は半月遅れのお目見えだった。近隣の農家で「おおまさり」という大粒の落花生を買う。塩を入れた湯で殻つきのまま約20分間茹でる。圧力鍋なら5,6分間といったところか。塩茹では落花生本来の美味しさを味わうことができる。ビールとの相性も抜群で、ローストしたピーナッツとは一味も二味も違う。一度食せば病みつきになること間違いなし。

一通りの手仕事を終え、10月下旬に福島を訪ねた。

かつての同僚が福島に移住して5年。桜の季節にと誘われていたのだが、都合がつかず5年の歳月が経ってしまった。友人の夫君の運転で裏磐梯・五色沼、喜多方、会津若松を巡った。標高1600mの吾妻スカイラインでは色とりどりの紅葉に見とれ、点在する鄙びた温泉で、源泉かけ流しの湯に浸かった。まさに秋の手仕事を終えた私へのご褒美。最終日、庭の渋柿をもぎ、一個ずつヘタに焼酎をつける。ここでも秋の手仕事。1週間後、渋が抜けて甘くなった柿が届いた。(7期 齊藤)                                <下左写真:五色沼 / 下右写真:つばくろ谷>


【kissの会 第164回投稿】  「鼻利き冥利」

2023-05-21

 

風薫る5月の散歩道。私は鼻の穴を大きく広げて歩いている。青々とした樹々の間を吹き抜けていく風が、甘い香りを運んでくる。マスク越しにもそれとわかる香りは、バラ。

 

私の住む地域では、バラを素敵に植樹している住宅が増加している。また、散歩道の途中には大きなバラ栽培農家があり、バラの苗木を販売している。そんなわけだから、あっちからもこっちからも様々なバラの香りが漂ってくるのだ。


一口にバラと言っても、香りは千差万別。外見は華麗だが、香りがないものもあれば、控えめな外見からは想像もできない強い香りを放つものもある。香りに誘われて、よそ様の庭の前で鼻をひくひくさせながらバラの季節を楽しませていただいている。赤・白・ピンク・黄・オレンジ・紫と花の色も様々である。それぞれに花言葉があり、赤の「情熱」は誰しも知るところだ。ちなみに私好みの淡い紫系のバラの花言葉は「気品」。

自慢ではないが、いや、やはり自慢だろう、私は鼻が利く。匂いの微妙な違いが分かる人なのだ。自己主張の強いバラの香りの隙間から、ほのかな香りをキャッチ。甘さの中に爽やかな香りが混ざる。こちらは夏ミカン、ユズなどの柑橘類の花の香(左写真はスダチの花)。冬になれば黄色の実をつけ存在感を示すが、5月に咲く花は目立たない。だから香りの源を探し当てた者だけが、濃い緑の中に小さいけれど凛とした白い姿をとらえることができる。鼻利き冥利に尽きる。

 

実をいうと、食べ物の匂いの嗅ぎ分けにこそ、私の鼻は力を発揮する。バルセロナを旅行した時のこと。生ハムのサンドイッチの朝食をとった帰り道、どこからか、香ばしい匂いが漂ってきた。匂いにつられてふらふらと歩いて行くと、一軒のパン屋に辿り着いた。焼きたてのクロワッサンが光っていた。迷わずクロワッサンと紅茶をぺろりと平らげた。ホテルに戻りガイド本を開いてみると、その店は「バルセロナを訪れたら必ずクロワッサンを食べるべき店」と紹介されていた。旅先ではこの鼻のおかげで美味しいものに出会うことが多かった。匂いがごちそうをさらに引き立てるのは言うまでもない。私にはごちそうを前に、鼻の穴を大きく広げてクンクンと匂いを嗅ぐ癖がある。この癖は「気品」という言葉からほど遠いかもしれないが、香ばしい(こう)匂いは香しい(かぐわ)花の香(か)同様、私を幸せにする。 

ところで、鼻の穴の働きを考えたことはあるだろうか?鼻には多くの興味深い働きがあるが、主な役割は呼吸と匂いの嗅ぎ分けである。鼻は左右交代で片方ずつ呼吸をする交代制鼻閉(ネーザル・サイクル)という省エネ作業をしている。主に片方の鼻で呼吸し、もう一方の鼻で匂いを嗅ぎ分けている。鼻の奥にある鼻甲介の毛細血管は約2、3時間ごとに充血・膨張を繰り返し、鼻の換気機能の修復と免疫機能の強化をしている。膨張した鼻孔は空気が通りにくくなる。こちらの鼻の穴を空気がゆっくり通ることで嗅ぎ分けが可能になるという仕組みらしい。


人は犬並みに多くの匂いを嗅ぎ分けることができるという。そういえば、イタリアで犬とトリュフハンティングをしたとき、私は土の中のお宝の匂いをキャッチすることができた(ホントの話)。


昨今、匂いと認知症の関係が注目されている。加齢によって匂いの感覚が弱くなる現実。匂いを感じにくくなったら、認知症の始まりかも?そこで、良い香りのハーブオイルを身に着け、深い呼吸をすることで、匂いセンサーを強化し、認知症の予防と改善を図る試みが既に始まっている。

 

そんなわけで、初夏の風が運んでくる香りを楽しみながら、今日も私は鼻の穴を大きく広げて歩いている。                          (7期:齊藤)

 

 

【Kissの会   第153回投稿】 「未来のためにできることから始めよう! 」

2022-11-21

 

今年世界の総人口は国連の推計で80億人に達した。SDGsの目標達成期限の2030年には85億人となる見通しだ。


2015年の国連サミットで合意された持続可能な17の開発目標は、環境問題から社会問題まで世界全体で通り組まなくてはならない課題だが、気候変動による環境破壊が大きくなり達成が一層難しくなってきているのではないだろうか。  


 中でも人口の爆発的増加と食糧問題は深刻だ。世界総人口の一割が飢えで苦しんでいる。気候変動による干ばつや集中豪雨、害虫の異常発生が開発目標2「飢餓をゼロに」の達成を阻んでいる。 

 

さらに目を背けてならないのは、食料廃棄・食品ロス問題だ。現在全世界の穀物生産量は人口を賄うのに十分な量が生産されているにもかかわらず、食べられるはずの食糧が世界全体で年間13億t(10億人を養える量)も廃棄されているという事実。食料廃棄問題は焼却処理によるCO2増加に直結しており、温暖化の大きな要因ともなっている。私たちがまず取り組むべきは食品ロス問題だ。そのうえで、目標に記されている地球に負担の少ない持続的な生産の仕組みを再構築することだろう。

そんな中、パリに移住した俳優・杏さんがパリの食品ロス問題についてリポートしているのを見た。フランスでは生産された食品の3分の1が廃棄されていたが、2019年に食品廃棄禁止法が成立し、2025年までに食品廃棄物を50%削減する取り組みが始まっている。400㎡以上のスーパーには、売れ残った食品を寄付することが義務付けられた。 


民間レベルでも取り組みは広がっている。モンパルナスの高層ビルの屋上では、農薬を使わない水耕栽培農業を展開し、近所のスーパーやレストランに納入している。地消地産という仕組みが運搬中の損傷による廃棄が減少し、運搬のコストカットやCO2の削減を実現している(右上写真)。

 

 さらに、スマホアプリを用いてスーパーやレストラン・パン屋を中心に売れ残ったものを3分の1の値段で提供する「Too Good To Go」サービスや、余ったものを冷蔵庫に入れ必要な人が持っていく「連帯の冷蔵庫」など〈地べた〉の活動が本格化している。フランス人のエコ精神は潜在的に高く、エコバッグの火付け役でもあった。「ささやかでも自分たちができることから始めよう」という気持ちに強く共感する。

売れ残りロスを削減する「Too Good To Go」サービス

「連帯の冷蔵庫」(余りものの提供と活用)


さて、日本は?。廃棄大国日本(1人当たりの廃棄量は中国と並び世界一)の食品廃棄量は年間2801万t。うち、624万tがいわゆる食品ロスで、これは世界の食糧援助量320万tの2倍に相当する。廃棄量の6割は意外にも家庭から出ている。わが家の食品ロスを点検してみると、冷凍庫で化石状態になっているものを発見し、愕然とする。

 

欧州のようにオーガニック野菜を食せば、家庭の食品廃棄量はずいぶん減るのだがという思いもある。私が住む地域には庭先で野菜を販売する農家が多くある。農薬はできるだけ使用せず、旬の野菜を作っている。新鮮で美味しいものを手に入れることは消費者には嬉しい。旬の野菜を安心して食すことは当たり前のことなのだが、その当たり前がどこかに吹き飛んでしまって久しい。曲がったキュウリも美味しい。冬に石油で育てたトマトやナスを食べなくたって旬の大根やホウレンソウを食べればいい。消費者の意識が変わらなければ農業は変わらないのだ。

 

『人新世の「資本論」』の著者斎藤幸平氏がいうように、SDGsは目下の危機から目を背けさせる現代版〈大衆のアヘン〉〈免罪符〉なのかもしれない。行動目標をなぞっても、気候変動は止められないだろう。それでも、大量生産・大量消費という呪いを断ち切り、責任ある消費者としてささやかでもできることはある。 (7期/齊藤)

 

 

【Kissの会 第142回投稿】  「身近な自然に目を向けて」

2022-05-21

  「ホー・ホケキョ」

5月の青空に響き渡るウグイスのさえずり。すぐ近くから聞こえてくるけれど、勢いを増しつつある青葉に阻まれて姿を見ることはできない。第一声を確認したのは、暖かくなりかけた3月末だったか。

 

「ホ・ホケ!」「ホー・ホキョキョ・・・」というちょっと残念な鳴き声は練習不足の〈くぜり〉と言うそうだ。鳥は生まれながらに美しい声を出せるわけではなく、膨大なボイストレーニングを重ねた結果として、美しいさえずりを手に入れるのだ。


春から夏にかけて耳にする鳥たちのさえずりには重要な意味がある。一つは、オスからメスに向けての求愛の自己アピール。実際、さえずりが上手いと、求愛行動は高まり自分の子孫を残せる確率が高まるという。どの世界でもラブソングが上手いとモテるのだ。

 

もう一つは、自らの縄張りをアピールする行動。縄張りは繁殖行動をするための拠点であり、ライバルとの直接衝突を回避する空間だ。ライバルと出会う度に闘っていたら、羽や体が傷つき、子孫を残すことはおろか、生き抜くこと自体が難しくなる。鳥たちにとって〈さえずり〉は真に合理的かつ平和的手段なのだ。

他方、仲間とのコミュニケーション手段としての鳴き声が〈地鳴き〉である。京都大学白眉センターの鈴木俊貴さんは、シジュウカラの鳴き声の意味を解明する論文を発表し、動物行動学+言語学という研究分野を構築したことで注目を浴びている。鳥の鳴き声とヒトの言語には共通点があるという。 

 

単独で用いる場合、ヘビがいるなら「ジャージャー」、タカのときは「ヒーヒー」と鳴いて、周囲に警戒を呼びかける。さらに複数の鳴き声(単語)を組み合わせて、複合的な意味を引き出している。「天敵、警戒せよ!」「餌みっけ、よっといで」「怪しい者がいるが、注意して集合」など、単語を組み合わせて文章を作り仲間に伝えているという。

京都大学白眉センター

鈴木俊貴さん


シジュウカラの仲間にはコガラ、ヒガラ、ヤマガラなどがいるが、これらの鳥は種を超え共にカラの学校で学び、お互いの鳴き声=コミュニケーション手段を学習する。小さなカラは学習したコミュニケーション力を活用して、天敵から身を守っているのだ。

 

このことをNHKの「ダーウィンが来た」で知った私は、早速観察を開始した。シジュウカラの鳴き声を耳にすると木のそばに近寄り反応をみる。それまで騒がしく餌をついばんでいたシジュウカラはピタッと動きを止めて、こちらの様子をうかがう。おそらく「怪しいものを発見!様子を見るべし」というリーダーの鳴き声に他のシジュウカラが反応したのだろう。ついで「危険はなさそうだ。餌を食べよう」の合図に、またおしゃべりをしながら木の実を食べ始めるのだ。私はシジュウカラ語をマスターした気分で鳥たちの会話にしばし耳を傾ける。。


シジュウカラは黒いネクタイを締めたような模様のある小さな鳥で、ツバメ同様人家の近くに生息する。樹木や電線の上で「ツピ・ツピ」「ツペツペ」と鳴くので見つけやすい。ちなみに求愛行動としてのさえずりは「ツツピー・ツツピー」であり、耳を澄ませるとツピに交じって聞き分けることが可能だ。

 

長引くコロナ禍にあって身近な自然に目を向けることが多くなった。今まで気が付かなかったことや沢山の不思議に出会う。関心をもって調べてみると、生物が生き延びるための知恵を目の当たりにし、その素晴らしさに驚嘆する。ヒトも鳥を見習って、衝突を回避するための〈さえずり〉ができないものか。そして、国や人種、宗教の壁を越えて、平和的に共存する道はないのだろうか。ふと、そんなことを考えるこの頃である。  (7期  齊藤)

 

 

【Kissの会 第131回投稿】  「贅沢なコーヒーを一杯」

2021-12-11

  

コーヒーがたまらなく飲みたくなる時がある。いざ仕事を始めようというそのとき。とっとと仕事にかかればよいものを、コーヒーを淹れたくなる。お湯を沸かす。フィルターに豆を入れて蒸す。少しずつお湯を注ぐ。そして、コーヒーを味わいながら仕事に向き合う気持ちを静かに高めていく。

私とコーヒーの出会いは、大学時代だ。大学の周りにはルノワールだとかジャズ喫茶だとか沢山の喫茶店があった。人と待ち合わせ、一杯のコーヒーで何時間もおしゃべりした。焙煎が深い真っ黒なコーヒーは、ただただ苦かった記憶がある。一杯の値段ははっきり覚えていないが、180円位だったか。ほぼ毎日通っていた。親から小遣いをもらっていた身には結構な出費だったに違いない。

 

大学生活の2年目、地元のコーヒー専門店でアルバイトを始めた。専門店というだけあって豆の種類が多く、サイフォンで淹れるコーヒーは透明感があった。多分、私のコーヒー好きはここから始まっている。

仕事前に必ずマスターがコーヒーを淹れて私に差し出す。

   「今日の豆は何か当ててごらん。」 

二十歳の小娘にコーヒー豆の種類など分かるわけがない。しかし、毎回コーヒーを飲みながらマスターのレクチャーを聴いているうちに、おおよその豆の特徴が分かってきた。苦み、酸味、コクの違いが分かれば豆の種類を当てることはできる。繊細な味わいの違いは豆の違い、すなわち、産地の地味や気候にあった豆が栽培されているのだ。ちなみに私の好みは酸味が強く、苦みはほどほどといったコロンビア、キリマンジャロだ。しかし、コーヒーのおいしさはその時の体調や雰囲気に左右されるから、体調さえよければ基本どんな種類でも美味しくいただくことができる。 


 ところで、今年私がハマっているのは、その名も『産地をいただく一杯』というコピーが付いたコロンビア産のハンディドリップコーヒーだ。産地にこだわったコーヒー豆100%を使用したシングルオリジンコーヒーなのだが、初めて飲んだ時にはその美味しさに驚いた。お湯の量や蒸らす時間をレシピ通りに淹れれば、誰でも超が付くほどの美味しいコーヒーをいただくことができる。酸味、コク、苦みのバランスが絶妙の〈ウィラ〉と〈バジェデルカウカ〉の最大の特徴はフルーティーな香りだ。前者はマスカットの甘い香り、後者はオレンジのような爽やかな香りが喉から鼻に抜ける。雑味は全く感じられない。これぞ私が求めていたコーヒー。

 

さらに商品情報に目を向けると、生産者の顔が見えてくる。ウィラはアンデス山脈の南部、バジェデルカウカは南西部に位置した自然豊かな土地だ。標高1000m~2000m付近で栽培されたコーヒー豆はFNCコロンビアコーヒー生産者連合会というNGO組織を通じて取引されている。コーヒー豆の全量買い取り保証やコーヒーの木の植え替え事業、技術開発など、生産者のより良い暮らしの実現に向けて取り組んでいる。最近よく耳にする持続可能なコーヒー栽培プロジェクトというわけだ。

個包されたそのお値段は一杯約100円。じっくりコーヒーを淹れながら、この豆はどこからどうやって私のところに届いたのか、豆の産地や生産者に想いを巡らせる。コーヒーは格別に美味しく、何とも贅沢な時間を提供してもらったという気分になる。そう、私はエシカル消費者なのだ。

 

数十年来、コーヒー豆の出がらしは、乾燥させ、冷蔵庫の脱臭剤として活用してきた。さらなる活用法としてチャレンジしているのがたい肥作りだ。腐葉土と出がらしを混ぜてひと月発酵させれば立派なたい肥が出来上がる。さて、来春はどんな花を育てようか。 

 

コーヒーを飲みながら行く年、来る年のことを考える。    (7期:齊藤)

 

 

『産地をいただく一杯』

<ウィラ>と<バジェデルカウカ>


【Kissの会 第120回投稿】  「奇跡の川、落合川 」

 

2021-06-11  

 

我が家から20分ほどのところに落合川は流れる。全長3.5km、東久留米市八幡町を源流とし、埼玉県境付近で黒目川に合流する。この川を流れる水のほとんどは南沢湧水群と川のあちこちから湧き出たもので、その水量はなんと、一日1万トン、平成の名水百選にも選ばれている。数年前の暑い夏にRSSCのフィールドワークで訪れるまでは、近くにこんなにも自然豊かな川があることを知らなかった。


この川が住人の憩いの場となるまでには、多くの人々の努力があったことはいうまでもない。1970年半ばまで、この川は生活排水で汚染され、かつ、1992年に河川工事が行われると、湧水が涸れてしまった。しかし、2008年に突如湧水がよみがえると、行政と住民が協力し、生態系の豊かな川を取り戻すための活動を開始したのである。この川は人の手によって豊かな自然を取り戻した川だ。

この川を足しげく訪れるようになったのは、昨年の桜の季節。それから1年が経ち、四つの季節を歩いた。季節ごとに咲き誇る様々な樹木や草花が川の表情を変え、歩く人の心を和ませる。何よりも、いつ何時も澱むことなく流れるせせらぎが心地よい。

 

この川では準絶滅危惧種のナガエミクリ、タコノアシ、ミズニラをはじめとして約800種の生物を確認できる。また、点在する湧水点にはクレソン(左写真)が自生しており、春先には水の中から顔を出す。4月になると、むっくりと背をもたげ、可憐な白い花を咲かせる。ひと月後には子供の背丈ほどになって川を埋め尽くす。

年間を通して水温15℃の川にはサギ類、カモ類、さらにカワウなど多くの水鳥が生息している。ホトケドジョウ、オイカワ、川エビのほか、ヤゴ、カワニナ、イトミミズなど餌が豊富だ。2月、恋の季節を迎える前の鳥たちがエネルギーを蓄えるためにやってくる。効率よく体にため込むことが、自らの遺伝子を残すことに直結しているという。まだ春浅い時期であっても、川はつがいを求めてやってきたカモ類で埋め尽くされ、縄張り争いや恋の駆け引きをする鳴き声であふれる。5月、恋の季節が終わり静かになった川では、かえったばかりのヒナが母カモに守られてと泳ぐ姿が見られる。

 

水鳥の餌の採り方はユニークだ。哲学者のような趣をもってじっと一点を見つめるダイサギやアオサギは、チャンスが来ると首のみを動かして一瞬で餌を確保する。カモは体半分を水中に入れ、逆立ちをして餌をとる。泳ぎが達者なカワウは真っ黒な潜水艦のようだ。水中から顔を上げたときは嘴でしっかり小魚をくわえている。 

ダイサギ

カモの親子


ここでは水鳥だけでなく、様々な種類の鳥を目にすることができる。春まだ早い頃、枯れた葦のあたりからガサガサという低い声が聞こえる。眼を凝らすと、薄汚れた緑色の鳥がいる。竹藪や葦の枯草の間で冬越しをするウグイスだ。本来の鳴き方を思い出して?ホーホケキョと鳴くのはもう少し後だ。

 

おじさんたちがカメラを抱えて集まっている。高そうな望遠レンズの先には色鮮やかなカワセミの姿が。ここで営巣をしているので、一年を通して目にすることができる。

初夏。ツーピツーピというせわしない鳴き声。見上げれば、青葉の中に白いおなかに黒いネクタイ模様が見える。シジュウカラの子供たちが桑の実を啄んでいる。木を突いているコゲラを見つけたら、「ラッキー!」と思わず呟いてしまう。

 

暑い盛りは子供たちが川遊びに興ずる。少し離れた場所で釣り糸を垂れる太公望の姿。おばさんはミント摘みに精を出す。大勢の人が川で憩う。住民の手で川を守る活動は今も続いている。蛍の夕べ、川塾などの学びの場も豊富だ。子供たちによる清掃活動や川を学ぶ活動が奇跡の川を守っている。(7期 齊藤)

 

 

【Kissの会 第109回投稿】          「断捨離の極意」

2020-12-11

  

COVID19の嵐が吹き続ける中、2020年も暮れようとしている。この10か月、皆さんは新しい生活様式とどのように向かい合ってこられただろうか?。自粛期間中、私は突然降ってわいたような時間を使って何度か断捨離を試みた。挫折の連続であった。


何故断捨離がうまくいかないのか、言い訳を考えてみる。開かずの間と化した部屋にはシミのついた書籍、印刷物、絵本、工作道具、古いPCが雑然と並ぶ。これらは長い年月見ぬふりをしてきた不用品だが、見方を変えれば私の来し方そのものでもある。人(私は)はそう簡単に過去を捨て去ることはできない。ならば衣服の断捨離にトライ!とクローゼットを開ける。主をなくした服や何年も出番がなかった服がぎっしり詰め込まれている。断捨離と銘打つ「〇〇の片づけ法」によれば、手にした際のときめき感が処分の基準だ。ときめくものなどないから、手放す判断は簡単だ。しかし、当方はその手放し方に少しばかりこだわってしまうのだ。

不要となった衣服は①焼却ごみ②資源ごみ③リユースに分別される。破損、汚れがある服は躊躇なく焼却ごみ、資源ごみに分別できるが、質が良い物や高額だった服は処分の判断に困る。かつて美徳とされた「もったいない」という気持ちがつきまとう。できればリユースの道を選択し、だれかに使ってもらいたいのだが・・・。

 

これまでブランドの売れ残り服はすべて焼却処分されてきた。しかし、捨てられる運命の新品を買い取り、タグを外して1000円以下で販売するビジネスがあると聞けば、とても古着をもらってと言いにくい。やはり不要な衣服は捨て去るしかないのだろうか?。日本では年間33億着・100万トンの衣服が廃棄され(アメリカはなんと1300万t!)、焼却処分されているという事実。衣料焼却によるCO2の大量発生も新たな環境問題として浮上している。

私が引っかかるのもまさにここなのだ。手放した後のゴミの行方はどうなるのか?。先の「〇〇片づけ法」は、欧米でもたいそうな人気で断捨離という名の下に様々な物が大量に捨てられ、焼却されているという。確かに物がなくなって住まいも心もスッキリするだろうが、地球のゴミは増える一方だ。

 

とすれば、焼却するのではなく、ごみを出さないための発想の転換とリサイクル材の新たな活用化が求められる。衣料廃棄物を素材とした擬木から家具やボートを生産する試みや回収した使用済み自社製品から新たな製品を作り出すという取り組みはすでに始まっている。リユースの観点からはサイズアウトした子供服の買い取り・販売をビジネス化している企業や、子供服そのものをシェアするという考えを実践する若い世代が増えている。さらにブラックフライデーに、『新作のないファッションショー』を企画したメルカリの発信力はお見事。過剰な消費からの転換を目指す〈グリーンフライデー〉の取り組みは、待ったなしのSDGsに背中を押される形で世界中に広がりを見せている。

断捨離はもとはヨガの修行思想で、外界へ繋がる雑念を断ち、捨て、手放すことで、思い悩むことなく、何物にも囚われない生き方を手にしようとする思想である。断捨離流片づけの極意はモノに囲まれ、使い捨てシステムにどっぷりつかってしまった私たちの意識そのものを変革することなのではないか。闇雲に不要物を捨てることではなく、できるだけモノを持たない生き方を選択すること。今の自分に本当に必要なものを選び、大切にし、使い切るというささやかな行為が傷ついた地球を救うことに繋がると信じたい。

 

それはさておき、目の前の不用品をどう処分したものか・・・。                                           (7期) 齋藤 

 

【Kissの会 第98回投稿】    「沁みる」

2020-07-01

 新型コロナ収束後の世界に自分は立つことができるのだろうか?。大げさすぎる?いやいや、新型コロナウイルスの驚きの増殖戦略が明らかになるにつれて、不安は増すばかりだ。

 

人との接触を避けることが感染防止の唯一の手段と、ステイホームを続けた3か月。とてもじゃないけどこの事態をポジティブに考えることなどできるはずもなく、辛くて何度も心が折れそうになった。

 

免疫力を高めるといわれる快食・快眠・適度な運動をこれまで以上に自らに課した。毎日1時間、自分の住まう西東京市と隣接する地域を歩き回わった。寺社仏閣・公園を巡り、咲き誇る桜をカメラにおさめた。季節の推移とともに目に映る花もツツジ、薔薇、紫陽花と変わり、時が来れば必ず花を咲かせる自然の理に、幾分心の平静を取り戻す。家々に囲まれた四角い畑に整然と並ぶそら豆やトウモロコシの生長を楽しみに、朝取りの野菜をぶら下げて歩く帰り道。それらをひとつも無駄にすることなく調理しては食べた。野菜本来の美味しさが沁みる。口福を感じるとき不安を忘れる。


緑色の風の中で、堀りたての筍と出会った。手ほどの大きさの筍を5本、糠で茹でた。灰汁がないから、そのままで十分美味しい。筍ご飯・若竹煮・天ぷらと考えつくだけの筍料理を拵えた。いつもなら息子家族に届けるのだが、外出自粛の真っ只中、孫に会うこともできない。そうかといって一人では食べきれず、おずおずと隣家のインタホンを押す。数日後、珍しく映し出された我が家のアイホンにはお隣さんの顔が。大事そうに差し出された紙袋の中には半紙に包まれた枇杷。挨拶程度のご近所付き合いに変化の兆しあり。枇杷の皮を剥きながら初物を食す。初夏の訪れを告げる甘酸っぱさを味わいながら、長屋的付き合いも悪くないなとにんまりする。調子に乗ってベランダ育ちのハーブをどうぞと衝立越しに手渡す。以来ベランダは物々交換・情報交換の場となる。


ステイホームの一日は長いのか短いのか判断がつかない。読書と散歩と料理を作って食べることで一日が終わる。話し相手がいないのは結構ツライ。何日も続くと声の出し方を忘れそうになる。呼吸が浅くなり、不安な気持ちになる。そんな時に優れたテクノロジーとの出会いがあった。いわゆるLINEのビデオ通話。それまでほとんど使うことはなかったが、今回はまさに救いの神。会うことができない孫の顔を見るだけで幸せホルモン・オキシトシンが分泌される。さらにSkypeやZOOMなどのリモート会議システムは複数の人との会話が可能な優れものだ。この画期的なツールへ導きサポートしてくれた某氏には感謝の言葉を捧げたい。その存在は知っていたが、実際に使う際に目の前に立ちはだかった壁を取り除いてくれたのだ。初めてPCの画面に知人の顔が映し出されたときは半端なく感動した。習うより慣れよ!今では多くの人たちとおしゃべり、お茶会、飲み会と楽しく活用している。顔を見ながら会話できるという当たり前のことが本当にありがたい。

さて、緊急事態宣言が解除され、経済活動も動き出したが、感染拡大の不安が取り除かれたわけではない。すでに学校も再開され、私も週2日ほどの勤務を再開した。驚くことに学校はマスクと手洗い以外なんの対策もないまま、3密の状態は続いている。多くの子供との接触は、リスクを持つ者には不安材料の一つだ。自分をしっかりガードしなければと思案していたその時、一通のLINEが届いた。

 

 「フェースシールドが入手できたので、
           よろしければ、おひとつどうぞ。」

 

沁みるんだよね、こういうの。《ひとりだけど、ひとりじゃない》このフレーズ、どこで聞いたんだろう・・・。

7期生 斉藤

 

【Kissの会 第86回投稿】  「一言が、愛になる」

2019-12-21

                          

毎年11月、喪中はがきが届く。今年届いた中に高校時代の友人の一枚があった。年始の挨拶を控えるという文言の後には続きがあって・・・。

 

「これを機会に、年賀状を卒業したいと思います」

 

えっ?年賀状を卒業する?それって、細くて切れてしまいそうな私との繋がりを終わりにするってこと?

そう遠いところに住んでいるわけではないが、会う機会もないまま、長い間年賀状のみの付き合いではあった。でもね、だからこそ、私としてはね、年に一度自分がつつがなく毎日を送っていることを知らせる手段、そして、相手が元気にしていることを知る機会として捉えていた。細くて切れてしまいそうな糸でもなんとか繋がっているという思い込み。友人の年賀状卒業宣言に心がざわつく。

年賀状を卒業することを終活の一環と考えているシニアも多い。でも、そこまで断捨離しなくても・・・と心のどこかで思う自分がいる。 

新年の挨拶は直接相手に会って言うのが一番だが、なかなか会うことのできない人たちとは年賀状のやり取りを続けている。まず、小・中・高校の同級生。もう、何十年も会っていない。結婚して子どもが生まれて、おばあちゃんになって、という環境の変化は年賀状を通して得た情報だ。年に数回会うこともある大学の友人やかつての職場の仲間たち。退職して悠々自適の生活していること、ボランティア活動をしていること、体力づくりに励んでいることなど年賀状にはたくさんの情報が面白おかしく記されている。それから、仏の席で会うことが多くなった親戚関係。教え子とその保護者。ちびすけだった小学生が大学生になったとか、就職したとか、結婚して母親になったとか、こちらはめでたい情報が多い。はがきを手に、「私も歳を取るわけや」と独り言ちる。

 

年賀状のルーツは飛脚が活躍した江戸時代まで遡る。平安時代には既に年の始めにお世話になった人や親戚の家を回って挨拶をする《年始回り》の習慣があった。江戸時代になると、この年始回りのほかに遠くに住む人にも年始の挨拶を書状にして届けるようになった。しかし、この時代年賀状はまだまだ特別の人たちの物であった。

 明治になり、郵便制度の開始とともに、郵便はがきが販売されるようになると、元日の消印が人気を呼び、広く年賀状ブームが起こる。年末に投函したはがきが元日に配達される年賀郵便の特別取り扱いは明治32年に導入され、現在まで続いている。

 

昨今はメールの普及とともに年賀状離れが進んでいる。昭和24年から続くお年玉付き年賀はがきの今年の発行枚数は約24億枚、一人当たり18.6枚とか。ピーク時(2003)の半分ほどだ。販売促進を図りたい日本郵便は、ここ数年人気グループ「嵐」をCMに起用している。今年は5人それぞれの「一言が、愛になる」という15秒の物語で勝負をかける。誰かに思いを馳せてペンを走らせる大野君。郵便受けからはがきを取り出し、差出人を想う二宮君。う~ん、このCM悪くはないけど、販売枚数を増やすことができるのかどうか。

 

「春の始めの御悦び、貴方に向かってまず祝い申し候」

 

現存する最古の年賀状といわれる『庭訓往来』の一文例。ほかの誰でもなく貴方に向かってお祝いの言葉を伝えます、という何とも直接的な語り口。こんな風に友人と新しい年を迎えられたことを喜び合いたいものだ。

 

年に一度だっていいんじゃない?

私は今年もはがきの向こうに相手の顔を思い浮かべながらせっせと年賀状を書く。さて、あの人にはどんな一言を添えようか。

 

最後になったが、どなたさまも良い年を迎えられますよう。                 

                                                                                                                                                                                                                                                                                           (7期生) 齊藤

 

【Kissの会 第75回投稿】  「雑草・雑感」

 2019-05-25

この春、地元の小学校で講師としての3年目を迎えた。今年度は4年生の理科を担当している。教科書の最初のページを飾るのは春を知らせる桜の花。下の方にはナズナ・ヒメオドリコソウ・オオイヌノフグリといった小さな花の写真も載っている。

 

「この花の名前を知っていますか?」の問いに、多くの子は「知らない。」「名前なんかあるの?雑草でしょ?」という声が返ってきた。ペンペン草(ナズナ)、ビンボー草(ハルジオン)とつぶやく子は雑草と戯れたことのある子どもだ。

 

 

 当然これらの小さな花の名前など子どもたちは知るはずもない。今の子どもたちは雑草で遊ぶという経験がないのだから。まず、雑草が生い茂る原っぱや空き地がない。公園はあっても、美しく整備されすぎて、草をむしって遊ぶことなどできない。それに当の子どもたちは忙しくて外で遊ぶ時間もないし、遊びの種類も変化してしまった。確かにこれらの草花は雑草とひとくくりに呼ばれている。辞典では≪雑草は人が栽培する作物や草花以外の草。田畑、庭園などに侵入し、よくはびこる≫と説明されている。そもそも「雑」には≪価値がない≫という意味があり、雑草はまさにこの意味で使われている。厄介者というイメージだ。

 

私の子供時代は、一面ピンクのレンゲ畑で遊んだものだ。転げまわって遊ぶからパンツを緑色に染めてよく母に叱られた。原っぱではシロツメクサで冠やブレスレットを編んだり、オオバコで草相撲をしたりした。強そうなオオバコを見つける目利きだ。春の草花を材料にしたままごと遊び。「おとうさん、今日は早くかえってきてくださいね。」お母さん、お父さん、子ども役になりきって遊んだ。大人になってからはレンゲ畑を目にしたことはない。レンゲが見たければ、種を撒き、栽培しなくてはならない。その意味ですでに雑草という範疇から外れてしまっているのかもしれない。最近の校庭は芝生化しているが、職員は芝の養生や雑草取りに余念がない。どうせならレンゲや雑草が生える原っぱ風にすれば楽しいのに。

 

私の住む西東京市でも10年くらい前までは存在した原っぱが、いつの間にかマンションや駐車場に変わってしまった。でも雑草は駐車場の隅っこやアスファルトのすき間から颯爽と背を伸ばしている。木の根元や日の当たらない場所にも群れるように咲いている。どこにでも根を下ろし、増えていく雑草。その様子を力強いと感じるか、迷惑と思うか…。

 

連休前、家の周りに生えている雑草を調べてみようという提案をした。

「ハルジオンが咲いている場所を見つけた。綿毛のようになっていた。」

「カタバミの実って、プチっとはじけ飛ぶんだね。」

名無しの権兵衛の草花を図鑑で調べた子がいることを嬉しく思った。


 連休中、私も道端に咲いている小さな草花を摘んで、ありあわせの器に生けて玄関やトイレに飾ってみた(上写真/左:ドクダミ、中央:ハハコグサ。右の花の名が分かりません。ご存知の方、教えてください)。嫌われ者のドクダミの花の何と凛々しいこと!訪れた人がその美しさに気づいてくれるとつい顔が綻んでしまう。

 

最近「あしもとの宝物」というタイトルの新聞記事を読んだ。都心に位置する日比谷高校にひっそり活動する雑草研究部は存在する。校内に生えている何十種類もの雑草の名前と薬効を調べたり、押し花にしたり、料理して食べるという活動をしている。彼らは雑草を手にすることでどんな価値を見出すのか興味津々である。

 

子供の頃、ノビルやツクシを持ち帰ると、母は味噌汁や煮物にして晩の食卓に並べた。私が母となってからは子どもと一緒にヨモギ団子やオオバコクッキーを作った。雑草と遊んだり食べたりした体験は、いくつになっても懐かしく大切な宝物だ。(7期:齊藤) 

 

【Kissの会 第65回投稿】 「やっぱりイタリアが好き!」

2018-12-11 (7期) 齊藤

10月末、パルマを訪れた。天井からぶら下がる生ハムや借金の担保にもなるというパルミジャーノチーズなど美食の街として名を馳せるパルマだが、パルマ公国の首都であったことから、ヨーロッパの経済・芸術の中心であったことは意外と知られていない。16世紀に領主フェルネーゼ家が建造したピロッタ宮には世界中の権力者が羨んだという欧州最古の木造劇場があり、現在では博物館・美術館とともに公開されている。18世紀にはブルボン朝、19世紀初頭にはナポレオン1世の二番目の皇后となったマリア・ルイーズがこの地を統治していたこともあり、フランスの雰囲気漂う落ち着いた街である。そうそう、スタンダールの『パルムの僧院』もここが舞台となっている。

 

旅の目的は生ハムの王様クラテッロや白トリュフなど秋の味覚を堪能することだが、もうひとつのお目当てはルネッサンスを代表する画家コレッジョのフレスコ画。12世紀に建造されたロマネスク様式のパルマ大聖堂は、外観こそ質素だが身廊・壁・天井がフレスコ画で覆われ華やかな印象だ。その大聖堂のクーポラに「聖母被昇天」は描かれている。重厚なドアを開けると、地元十数人のグループが、何やら聖母に捧げる儀式を執り行っており、あろうことか、クーポラに続く階段は係員によって封鎖されていた。

    「え-、そんな!」

 多くの人は絵と対面せずに立ち去った。諦めきれず、その儀式を恨めしげに眺めていた私の後ろから美しい歌声が聞こえてきた。一人のほっそりとした教養深げな婦人が聖母に歌を捧げていた。私は思わず彼女に向かって親指を突き立てた。すると、ご婦人は私のところにやってきて、イタリア語で話しかけてきた。イタリア語は挨拶程度しか話せない私だが、なぜかその時はご婦人が言わんとすることが完璧に理解できてしまった。

    「どこからきたの?」 

    「ジャポーネ」

    「遠いとこから来たのね。コレッジョの『聖母被昇天』は

       もう見た?」

    「ノ(だって階段が・・)」

    「パルマに来たなら絶対観なくちゃダメよ。私と一緒に来て。」

    「グラッチェ!」

 

婦人は私の腕をとり、強面の係員の横を優雅に通り抜けた。私たちはクーポラの下に立った。

 

   「さあ、これがコレッジョの噂の絵よ。足ばっかりだけど、マリア様はどこにいるか分かる?ほら、

      青い布を纏って手を伸ばしている。息子が大好きなマンマを迎えにきているのよ。」

   「シー、オカピート(分かった)」 

 

画面の中央には、やはり足をむき出しにして、母の手を取ろうとするキリストが描かれている。当時の司教は「蛙の足のシチュー」と酷評し、人気は芳しくなったらしいが、この地を訪れたルネッサンスの巨匠ティッツァーノは「ベニッシモ!」と絶賛。コレッジョは下方から主対象を見上げた構図でキリストとマリアを描いたのだ。空気感をも描き出す画期的な画法が当時の人に理解されなかったのも無理はない。 

    「あなた、サン・パオロ修道院の≪コレッジョの

       部屋≫には行ったの?」 

   「ノ」

   「あれを見なくちゃコレッジョを観たことには

      ならないわ。16分割した傘形の天井に植物や

      果物やプットーが描かれていてとても美しい

      の。」

   「OK。グラッチェ!」

私たちは固くハグをして別れた。私はその足で修道院長の居室であった≪コレッジョの部屋≫に行き、明暗対比と光の効果を表現したバロックの先駆者としてのコレッジョを確認した。 

 

イタリアの食べ物はとにかく美味しい。歴史も芸術も見どころ満載。だが、なんといっても、陽気で素朴な人柄こそがイタリアの魅力なのだ。だから、何度も足を運んでしまう。次は何処へ行こうか、旅が終わった瞬間からイタリアのことを考えている。

 

【Kissの会 第54回投稿】 「あじさい読書旬間」

                                            2018-6-11  7期生 齊藤

紫陽花の花が咲き乱れる季節。雨も同時にやって来る。『羊と鋼の森』で本屋大賞を受賞した宮下奈都氏なら、湿気を含んで重く感じる空気をどう表現するのだろう?

「雨のにおいがする。」―なわけないか・・・。

 

これから7月半ば過ぎまで雨とともに過ごす毎日である。五穀豊穣に欠かせない恵みの雨と分かっていても、このジメジメ感ウツウツ感は何とかできないものか。

私が勤務してきた小学校では、雨の季節に「あじさい読書旬間」というものがあった。(もちろん秋は「もみじ読書旬間」)この期間は気合を入れて、子どもたちと本の出合いの場を工夫する。図書室では新しい本や季節にあった読み物、先生方のお薦めの本をディスプレイして子どもたちの来室を待つ。雨で外遊びができない子どもたちは図書室で思い思いに本と接して休み時間を過ごすのだ。

 

年間を通して朝読書を一日の始まりに組み込む活動もしてきた。朝読書の継続は学校全体を落ち着かせる効果がある、というのが私の実感。読書が得意でない子どもへは読み聞かせがおすすめだ。落ち着きのない子もおしゃべり好きもいったん読み聞かせが始まると本の世界に耳を傾ける。読み聞かせの後で、同じ本を自分で読みたがる子も多い。今も保護者による読み聞かせの活動は盛んだ。蔵書数の増加や司書の配置など学校における読書環境は整備され、子どもと本との出合いを応援してきた。


この年になって、もっと読書をしておくのだった、という想いがある。私はあまり熱心に読書をする子どもではなかった。今ほど児童書が揃っていなかったし、人気のシャーロック・ホームズやルパンはいつも貸し出し中であった。お恥ずかしい話だが、学生時代は特定の作家の作品ばかり読んでいて、本当に貧弱な読書経験しかないのだ。

大人になってからは仕事と日々の生活に追われ、自分のための読書ができるようになったのはここ10年くらいのことだ。相変わらず、気になる作家の作品を読み尽くすという読書方法であるが、これに本屋大賞と直木賞作品が加わることでなんとかバランスを保ってきた。題と作家名、登場人物と簡単なストーリー、自分なりの評価を○△×でノートに記録してきた。

 

ここ数年、読書会に加わることで、新たな読書の楽しみを知ることができたように思う。本の選定や感想を伝えるのはそれなりにシンドイものがあるが、メンバーの感想を聞いて、いろいろな読み方があることに納得。これまで独りよがりな読書をしてきたが、読書会のおかげで様々なジャンル・作家の本と出合うチャンスが広がった。ジムで知り合った人たちと本についての情報交換をすることも多い。偶然街で出会ってそのままコーヒーショップに入り、本の話に花を咲かせることもある。話題の本を数人で読み、お酒を飲みながら読書後の感想や疑問を語り合うのも楽しい。基本、シニアは読書好き、語り好きなのだ。 

 

近頃は本との出合いの場としてブックカフェなる空間が増えている。コーヒーの香りの中で、ふと手に取った本の面白さに時間を忘れて読み耽る。何とも贅沢な時間だ。袋綴じされて書名も分からない本を購入すれば、思いがけない本との出合いが生まれるかもしれない。本との出合いの場といえば、店舗数は激減しているが街の本屋さんは外せない。購入する本を決めて行くこともあるが、フラッと立ち寄ることが多い。雑誌から単行本・文庫本のコーナーまでぐるりと店内を回る。本の帯を頼りに気になった本のページをパラパラとめくる。なんて贅沢な空間!

 

さて、今年も私の「あじさい読書旬間」が始まった。雨のにおいを感じながら本とともにいる時間を楽しむことにしよう。

 

【Kissの会 第43回投稿】 「柚子が恋しい季節」

 2017-12-22

柚子が恋しい季節になった。冬至が近くなると、八百屋の店先に丸くてちょっとでこぼこの黄色い姿が並ぶ。思わず手に取り、深く息を吸う。爽やかな香りに誘われ、一つ購入して玄関に置く。近年、一年中購入可能なリンゴやミカンに季節を感じることは少なくなったが、柚子は確かに季節を運んでくる。店に並ぶより先に、民家の庭先にたわわに実った柚子を見つけることがある。濃い緑の葉を背景に黄色の実が目に飛び込んでくる。私にとって柚子は冬の到来を告げる果実である。

 

日本における柚子の歴史は古い。中国の揚子江上流を原産とする柚子は、朝鮮を経て飛鳥奈良時代には日本に伝わり、薬用などの用途で栽培されていたという記載がある。果肉を食すというよりは、果汁や果皮を食や健康に生かし、実に千年以上も柚子との関わりを続けてきた。現在の中国で柚子といえば、グレープフルーツのように果肉を食する果物をさし、日本の柚子とは一線を画す。隣国の韓国では柚子茶が現在もよく飲まれており、日本の柚子とほぼ同種が栽培されていると思われる。余談だが、日本原産唯一の柑橘類としては「右近の橘」で知られる橘がある。初夏に柚子のような白色の花を咲かせる。柚子よりも小さい果実は小さく食用には向かないが、そのほのかな香を心の隅にしまって慈しんできたと思われる。

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞす古今和歌集 読み人知らず】

橘の花の香りは、昔の恋人へのほろ苦い想いと結びつけて読まれてきたようだ。 

 

 古来、「橘」は柑橘類の総称としても使われてきたという。日本には本柚子、花柚子、橙、金柑、蜜柑、朱欒(朱欒)、文旦など様ざまな柑橘類が存在したが、大きさも香りもその楽しまれ方も様々であった。ミカン属常緑小高木であるユズは耐寒性が強く、東北以南で栽培可能であるため、屋敷の周りに植えられて、ほとんどが自家消費されてきた。「桃栗3年、柿8年、柚子の大馬鹿18年」という言葉があるように、柚子が実をつけるまで長い年月がかかる。だからこそ、その花の香りや果実に対する思いも特別だったのだろう。本格的な栽培は江戸時代で、埼玉県毛呂山で栽培され、江戸のまちに供給された。京都の水尾、大阪の箕面などでも盛んに栽培され、上方の食文化を支えてきたことは容易に推測できる。現在では高知県と徳島県が栽培量の70%を占めている。

 

柚子の独特な香りと酸味は調味料として広く料理に使われてきた。また、柚子味噌、柚子胡椒のように薬味として重宝されてきた。そして、なんといっても果皮そのものを使った茶わん蒸し。ゆっくりふたを開ければ白い湯気とともにほんのり立ち上る柚子の香り。器の中には卵液よりもちょっと濃い目の柚子の果皮。小指の爪ほどの大きさなのにその存在感の大きいこと。さらに柚子釜などの器としても彩を添え、料理を御馳走に変えてきた。最近では海外でも人気が高まり、フレンチやイタリアンでも供されるようになっている。さて、冬至といえばゆず湯。ゆず湯は銭湯が始まった江戸時代に広まり、現在に至っている。黄色の丸い柚子が湯船に浮かんでいるのを見ると、もうそれだけで楽しい気分になる。香りを楽しみながら血行促進の効果も期待できるといえば、まさに極楽。

 

私は長年、柚子の姿、香りに冬の訪れを感じてきたのだが、俳句の世界では少し事情が異なる。柚子の花は夏、緑の実は秋の季語となっている。そして、黄色の柚子が浮かんだ湯は冬の季語。無病息災を願って今年もゆず湯を楽しむことにしよう。     

 

         うれしさよ 柚子にほふ湯に ずっぽりと日野草城              (7期:齋藤)

 

【Kissの会 第32回投稿】「お盆に母を想う」

その人は会うたびに小さくなっていく。
風船がしぼんでいく、そんな感じだ。

電車を乗り継いで1時間半のところに住む母を訪れるのは月に1回。退職して時間ができたらもっと足繁く通おうと決めていたのだが未だに実現していない。姉家族が同じ建物に住んでいるという安心感が、私の心のどこかにある。だから、母のもとを訪れるたびに、その変化にどぎまぎしてしまうのだ。今年87歳になった母は、肉がそぎ落ち、背も丸くなった。150㎝あった身長も今では私の胸元までしか届かない。足もOの字に湾曲し、歩くことにも難儀している。

一昨年の夏。「仙台に連れて行ってくれない?」それは母が私にする初めての頼みごとであった。足の悪い母は電車で故郷を訪れる最後のチャンスと考えたのだろう。私は早速切符の手配をした。大宮から新幹線でわずか2時間のところに母の故郷はあった。宮城県栗原市古川。母方の祖父母も伯父も早くに亡くなり、後を継いだ甥が米を作っている。訪れたときは青い稲穂が風に揺れていた。宮城の記憶はほとんどないが、祖母が亡くなった時、母が台所で泣いていたことを中学生だった私は覚えている。宮城はうんと遠かったのだ。

母の旅の目的は墓参りだった。墓は寺ではなく、こんもり木が茂る田んぼの隅にあった。東日本大震災の時に傾いてしまった墓石が微妙な傾き加減で建っている。花と線香をあげ、母は長い時間手を合わせていた。母にとっては何十年ぶりかの墓参り、そして、おそらく最後の墓参り。

翌日、かつて母が父と訪れたという鳴子温泉で、湯につかった。滑って転ばないようにしっかり母の手を握って湯船に入った。湯気でかすんだ洗い場で丸くなった母の背中を流す。年老いた母を感じながら、「気持ちいい?」などとどうでもいいことを言ってしまう。子供のように頷いて背中を預ける母。時の流れは何と優しくそして容赦がないのだろう。母には2人の兄と3人の姉がいた。今春、4つ違いの姉が帰らぬ人となり、親兄姉すべてと夫を見送ったことになる。大切な人たちがいなくなっていく寂しさと頼りなさを思うと切ない。

今年もお盆に母を訪ねた。仏壇には父と祖父母の写真が飾ってある。3人とも母よりも若々しい顔で微笑んでいる。江戸褄を着た小菊(祖母)さんはなかなかの美人だったね。ネクタイ姿の巳吉(祖父)さんはいつ見てもダンディだね。髪をオールバックにした父さんは若い頃エノケンにスカウトされたんだって。もし芸能人になっていたら?えー、そんなことになっていたら、私たちはいなかったでしょ。写真を見ながらお盆で集まった者たちの話が弾む。勿論お盆で帰ってきている父や祖父母たちも聞いているに違いない。

「天下取りの手相だって言われたことがある。」母が自分の右手を差し出す。確かに中指の付け根から手首に向かって一本の太い線がくっきり見える。天下取りねえ・・・。母は4つ違いの姉が結婚するはずだった父と18歳で結婚し、私たち4人姉妹を生んだ。まさかそれが母の天下取りってわけじゃないと思うけど。父と出会ってからの60数年のことをどう考えているのだろうか?そんなことを考えながら母の手をマッサージする。赤んぼの私を優しく抱いた手。動いたら髪の毛じゃなくて耳切っちゃうよ、と言いながら忙しく鋏を動かしていた手。終業式に来ていくお揃いのワンピースを縫ってくれた手。体のわりに大きくて働き者の手は、頑丈な骨のみが感じられた。勝手に父の手に似ていると思い込んでいた私の手とそっくりだった。(7期生:齊藤)

【Kissの会 第23回投稿】 「下町散歩 ―神田から日本橋へ―」  

神田カード下

姪と神田で待ち合わせた。約束の時間まで、ふらふらと駅の周りを歩いてみた。スーツ姿のサラリーマンや財布を小脇に抱えたOLが、それぞれの店先に出された〈早い、安い、ウマい〉の三拍子がそろった定食メニューを見比べている。1時を過ぎて私たちは目的のオイスターバーに到着した。店イチオシの牡蠣定食は、こぶしほどの三陸産牡蠣を生とフライでいただく。これに牡蠣飯、味噌汁、小鉢とお変わり自由のコーヒー(お持ち帰りもできる)が付いて税込1000円。この何とも言えない満足感は誰かを誘ってもう一度来たくなる。

「神田の飲食店はコスパ度が高い。とにかく飲食店の数が半端ないから。」
と長年神田でランチを食べつくした姪。
「ああ、神田周辺に勤めていれば、毎日安くておいしいランチが食べられたのに・・・。」
と食いしん坊の私。

しかし、昼どきはサラリーマンでいっぱいでなかなか席に座ることができないそうだ。神田駅周辺には昼はランチ、夜はお酒を提供する飲食店がごちゃごちゃと立ち並んでいる。飲み屋の種類も様々で、いわゆる赤ちょうちん、どこにでもあるチェーン店、こじゃれたカフェバーが所狭しと軒を連ね、仕事帰りのサラリーマンやOLを待ち構えている。神田といえば学生の街、古本屋の街のイメージが強いが、それは高台の地域。下町神田は改めて労働者の街ということを認識する。

「神田も見納めだから、ちょっと散歩していかない?」
3月から職場変えとなる姪の提案。
「いいね。このあたりを歩くのは本当に久しぶり。下町散歩と洒落こみますか。」
ランチを終えた私たちは神田から日本橋を経由し東京駅までブラブラ下町散歩を
することにした。
「日本橋って下町なの?」
「そうですとも!」

神田・日本橋は江戸の下町第一号である。下町とは地理的には低い土地を意味する。開府当時江戸の下町として意識されていたのは、間違いなくこの二つだけで、その他の湿地帯や西に広がる地域は江戸の範囲ではなかったのだ。高台に築かれた江戸城とその周辺は大名や旗本が暮らす武家地だったのに対し、江戸の町を整備するために必要な人々をこの地に住まわせたのだ。神田や日本橋には鍛冶町、紺屋町、鍋町、青物町、呉服町、元大工町、炭町などの町名がびっしりと並び、その町名を見ただけでどのような人々が住んでいたか分かる。江戸の町づくりとともに下町も拡大し、人情が作り出す雰囲気が下町の大きな特徴となって今日に至っている。

飲食店が立ち並ぶ神田駅南口から少し離れると街並みはガラッと変わる。昔、薬問屋が沢山あったことから製薬会社のビルが建つ。ちょうど室町に入った辺りだろうか。私の考える下町とは程遠いシックな装いのビルが整然と並ぶ。この辺りは某不動産会社が再開発を手掛けたと記憶している。某不動産会社グループ本店、高級フルーツ店、ホテル、オフィスビルがすまし顔で立ち並ぶ。と、突然高層ビルの狭間に鮮やかな朱色の鳥居が目に飛び込んできた。

「えっ、こんなところに神社・・?フクトクジンジャ・・・。ああ、あのテレビCMの。」
「宝くじを買って持ってくるとご利益があるらしいよ。」姪がすかさずスマホで検索する。
「へえ、そうなの。でも、今まで気がつかなかったなあ。こんなところに神社があったの。」

 

福徳神社

それもそのはず。福徳神社が室町に再生されたのは2014年10 月。それまで、社殿は駐車場ビルの屋上にあったというのだ。しかし、その由緒は古く、貞観年間(859~876)から福徳村の稲荷神社として鎮座し、江戸期には「芽吹き神社」と呼ばれて親しまれた。文政・天保期には幕府公認の富くじ興行を行っており、ご利益がありそうな名前が今日の宝くじ当選祈願へとつながる。一方で「さまよえる神社」という異名も持つ。江戸の度重なる火災で焼失し、関東大震災や空襲にも遭遇した。戦後は商都として復活した日本橋であったが、氏子の激減に社殿はとうとう駐車場ビルの屋上へ。

それにしても、東京というところは変貌し続ける都市である。町のどこかで必ず何やら工事が行われ、数年後には整然とした街並みが出来上がっている。以前そこに何があったのか思い出せないことも多い。無計画でその場しのぎの街づくり、これが江戸時代から今日に至るまでずっと続いている。江戸―東京では歴史や伝統に縛られることなく、というより、持つべき歴史や伝統がないから、躊躇なく作っては壊し、壊しては作るという繰り返しの中でまちづくりが行われてきた。東京は常に変貌し続けている。1964年のオリンピックの際、日本橋川をはじめとした川の上に高速道路を作り、あるいは川を埋め立て道路や暗渠にした。川は姿を消してしまった。そして2020年の二度目のオリンピックに向けて東京はさらに変わろうとしている。どのように変わるのだろう。東京駅駅舎や福徳神社のように、以前そこに存在したものを再生するという試みも見られる。また、かつて江戸の町が水の都であったように東京の川を再生しようという論議もあるようだ。少し前になるが、日本橋周辺の開発を手掛けた不動産会社のCMで、女優蒼井優がこんなことを言っている。
☆☆☆☆☆「さて、2020年、世界の皆さんに驚いてもらいましょうか。」
東京に住む私も驚いてみたい。高層ビルと福徳神社、どこまでもゆったり流れる隅田川からニョキっと伸びるスカイツリーの組み合わせのように(案外それが〈いき〉を感じさせる)、度肝を抜くような江戸風情の再生を期待している。(7期生 齊藤)

【Kissの会 第16回投稿】 「地元を歩く/送電線のある風景」

%e8%a5%bf%e6%9d%b1%e4%ba%acここ2ヵ月ほどデジカメをポケットに入れて、私が住んでいるひばりヶ丘駅周辺を散歩している。ここは西東京市の北西部、池袋から西武池袋線急行で2駅目(17分)のところに位置する。といっても西東京市がどのあたりかご存知ない方が多いかもしれない。2000年に旧保谷市と田無市が合併して西東京市が誕生した。練馬区、東久留米市、小金井市、埼玉県新座市に隣接している。東京都の西に位置しているわけでもないのに、西東京市か…と市の名前がしっくりこないと感じている市民は私だけだろうか。確かに都心から見れば西の方角ではあるが、どちらかというと東京都のへそあたりに位置している。住所を書く際に「東京都西東京市・・・」と書くことに違和感を持ちながらも、16年もたってしまうとちょっと諦めの境地。西東京市は人口約20万のベッドタウン。畑がところどころ点在すると同時に、ここ数年は高層マンションの建築が進んでいる。

s_p1070138市の名前を決める際にひばりヶ丘市というのも候補のひとつだった。まあそんなひばりヶ丘駅から7分ほどのところに羽仁元子・吉一夫妻により創設された自由学園(1934年に豊島区より東久留米市に移転)があるといえば、東京のどの辺りか検討のつく方もいらっしゃるかもしれない。自由学園の周りは、広い庭を持つ別荘風の家が立ち並んでおり、住宅地と畑が混然とした西東京市の風景と趣が異なる。武蔵野の雑木林を生かした広い庭には様々な樹木が茂っており、春はサクラ、秋はイチョウやカエデが季節の移り変わりを教えてくれる。

あちこち歩いていると思わぬ発見があったりする。自由学園近くに、どこまでも送電線が続く一本の遊歩道がある。「たての緑地」と名付けられたこの遊歩道は、東久留米市の管轄であるらしいが、ほとんど手が加えられておらず、かろうじて設置された車止めが遊歩道であることを物語っている。ホトトギスやムラサキシキブなど自然そのままの草木や樹木が茂っているが、アジサイやスイセンなど隣接する民家が手入れをしている植物も多い。

たての緑地/廃線跡

たての緑地/廃線跡

「たての緑地」の終点となっている、ひばりヶ丘団地から住友重機械工業田無技術研究所に渡る敷地には、戦時中まで中島飛行機の関連会社として軍用機のエンジン部門を製造する中島航空金属株式会社田無製作所があった。そこへ向かって、武蔵野鉄道(現西武線)東久留米駅から鋳造用の砂や燃料を運搬する2.84㎞の専用引き込み線が敷設されたのである。さらに、ここから中島飛行機武蔵野工場まで専用線がのび小型蒸気機関車が走っていた。この引き込み線は昭和15年に完成し、終戦と同時に中島飛行機関連会社専用線としての役割は終えた。しかし、中島航空金属田無製作所の跡地に日本初の集合文化住宅としてひばりヶ丘団地が建設される際には、建築資材を運んでいた。ちなみにひばりヶ丘駅は、ひばりヶ丘団地造成に併せ1954年に田無町駅から改称し、こんにちに至っている。1960年に撤去されるまで、この引き込み線跡は子どもたちの遊び場だった。今はその記憶を知る人も少なくなってきたが、地元の人たちの散歩コースとして、あるいは廃線跡マニアの訪れる「たての緑地」となってひっそりと時を刻んでいる。

そんな道を歩きながら考える。私は20年近くこの町に住んでいるのだが、家と職場の往復をしていただけで、地元のことをほとんど知らずに来てしまった。別な言い方をすれば、マンション族として地域との関わりを深く持たない根無し草として暮らしてきたのである。介護における地域包括システムについてのレポートを書く必要に迫られたとき、遅ればせながら地域の中で暮らす自分を意識した。そして、リハビリがてらの散歩を通して地域の自然や歴史を知ることが、改めて自分が住む地域との関わり方を考えるきっかけとなった。目下、根無し草としての関わり方を思考中である。(7期:齋藤)

【Kissの会 第9回投稿】「京都好き」、夏のおすすめは庭園巡り

8月に入った。きっと夏のバカンスを存分に楽しまれていることだろう。これからという方には、私のイチオシ、夏の京都をお薦めしたい。

三玲邸

三玲邸

私はここ10年、年3~4回ほど京都を訪れているが飽きることがない。毎年お盆明けの暑い京都を訪れている。1週間ほど御所近くのホテルに滞在し、暮らすようにのんびり京都の町を歩くのが私のお気に入りだ。祇園祭り、五山送りが終わると京都の混雑も一段落する。裏通りの町家小路ではひっそりとした平常の生活が戻っている。ゆっくり歩かなければ見逃してしまいそうな小さな寺社がきちんとお供えをされて葦簀や簾を下げた町家とともに立ち並んでいる。生活に欠かせない魚屋さんや豆腐屋さんが店を開けていて、生活の匂いが漂う。とはいえ、のんびりはんなり、なぜか東京にはない情緒を感じてしまうのだ。そう、私は大の京都好きである。伝統をもたない根無し草的東京人は、歴史と伝統をもち続ける京都に弱いのである。

『京都ぎらい』の著者井上章一さんは、「洛外人」であることから苦い経験が多いらしい。氏は「洛中人」の優越意識を≪実は落ちぶれかけた自分への劣等感からくる空威張≫として、著書の中で告発している。京都人の中でさえそうなのだから、東夷と呼ばれ続けた東京人ならば、京都人の≪イケず≫を経験された方も少なくないだろう。私も京都の食事処で極まりの悪い思いをしたことがあった。≪一見さんお断り≫という雰囲気は特に東京からのおのぼりさんに向けられているような気さえする。江戸からやってきた弥次さん喜多さんも、同じく≪イケず≫を経験したようだが、それさえも気づかず京都の素晴らしさに大興奮したらしい。この二人の態度はある意味正しい。私も知ったかぶりせず、千年の歴史と伝統を尊重し、謙虚な気持ちで京都人と向き合うことにしている。道を尋ねるときも、寺社の由緒を聞くときも、食事をするときも。すると、相手は、「よう遠くからおいでなはりましたなあ」とか言いながら、懇切丁寧にこちらの質問や要望に答えてくれる。基本、京都人はおのぼりさんを自認する人間には親切なのである。

三玲邸

三玲邸

そうそう、ここいらで夏の京都のお薦めをひとつ。昨年の夏、重森三玲の庭を訪ね歩く目的で京都に向かった。三玲は敷石と苔の市松模様で有名な東福寺方丈≪八相の庭≫の作庭家である。京都には三玲の庭が沢山あるが、まずは吉田神社近くの自邸、今は重森三玲庭園美術館となっている≪無字庵庭園≫を訪れた。自分のためだけに造ったモダンな枯山水の庭は言うまでもなく、自らデザインした茶室や市松模様の襖もすばらしい。帰り際、案内してくれた館長に東福寺以外でお薦めの三玲の庭を尋ねたところ、大覚寺塔頭の瑞峯院を紹介された。ここはキリシタン大名であった大友宗麟ゆかりの寺で、≪独坐庭、閑眠庭≫とともに七個の石を十字架に組んだ庭がある。また、利休が唯一残した二畳の≪待庵≫が国宝として現存している。普段は公開しないそうだが、住職と茶の話をしていたら、なぜか急に見せてもらえることになり、心の中でラッキー!と叫んでしまった。これも東京からのおのぼりさんが、恥も外聞もなく住職の説法に我慢強く耳を傾けた結果であろう。

三玲が手掛けた東福寺、松尾大社の枯山水と比べながら離宮庭園を巡るのもなかなかである。桂離宮や比叡山の麓に位置する修学院離宮には池泉回遊式庭園があり、池や樹木が創りだす涼を感じることができる。池に舟を浮かべて涼をとったり月を愛でたりした京の公家たちに、膨大な時間を超えて思いをはせるのも一興。また、洛北幡枝の圓通寺は、ちょっと不便ではあるが比叡山を借景とする枯山水平庭は観る価値がある。もし、時間に余裕があれば、相国寺の承天閣美術館に足を運ばれてはいかが。足利義満によって創建された臨済宗大本山である相国寺は中近世の墨蹟・絵画・茶道具を多数所有している。琳派の俵屋宗達、尾形光琳・乾山兄弟や伊藤若冲・円山応挙の作品も並んでいる。

基本的に京都の移動は市営バスと自分の足である。一日2万歩は歩く計算になる。歩いた後はもちろん夏の京の味「鱧」をいただく。鱧のてんぷらや青茄子と鱧のイタリアン風炒め物は最高。ビールやワインを飲みながら明日はどこへ行こうかなと考える幸せがある。「ああ、やっぱり夏の京都はいいなあ」(7期生 齊藤)

 

【Kissの会 第3回投稿】ファースト・キス

RSSCでの二年間の学び直しを終え、新たな学びと活動を模索している最中、杉村氏から投稿サークル立ち上げの誘いがあった。よくよくその趣旨も理解せぬまま、ちょっとした気の迷いから、即決でOKをしてしまった。石巻氏との酒の席での戯言が会結成の発端らしいが(いやいや本人たちにはもっと壮大な思惑があったと思う)、〈KISS〉という会の名称が、私の判断力を鈍らせてしまったのだ。

絵の題名は、やっぱり「接吻」でしょう。。

絵の題名は、やっぱり「接吻」でしょう。。

メンバー候補の頭文字をつなぎ合わせただけの〈KISS〉という言葉に、なぜかクリムトの描いた一枚の絵が重なってしまった。黄金の布に包まれた男と女。女は男に身を任せ、恍惚とした表情で頬に男の接吻を受けている。男の顔の表情は見えない。ただ、力強く、あるいは、やさしく女の顎を引き寄せ、唇で頬に触れている。春というなんともいえないざわめき感がクリムトの絵をひきよせたのかもしれない。究極のエロスを表現しているといわれるクリムトの絵の題名は『Kiss』であるが、日本においては『接吻』である。≪接吻≫という言葉は、唇を他人の唇・頬・手などに触れて愛情や尊敬や挨拶を示すことで、幕末にKissの訳語として造語されたという(日本大百科全書)

「Kiss」と「接吻」は同じ行為を表している言葉でありながら、微妙に受ける感じが違う。接吻(せっぷん)は促音が入ることで、「Kiss」や「口づけ」に比べて、重く、濃厚な印象を持つのは私だけ?「キッス」だったら少し「接吻」に近いニュアンス・・・?
しかも、日本には、他人の肌に自分の唇を触れるという挨拶や尊敬を表すという習慣はなかったから、≪接吻≫というとなにか秘密めいた、怪しげな世界を思い浮かべてしまう。そもそも、明治以前の日本においては愛の表現として≪口吸い≫という言葉が一般的であった。なんとも、直接的であっけらかんとしている。

という具合に、私が会の名前からあらぬ方向に興味・関心を膨らませている頃、徐々に会の全貌が明らかになってきて、私は慌ててしまった。えぇ!RSSCホームページへの投稿サークル?しまった!全くの勘違い。内々の人を対象に個人のつぶやきを聞いてもらおう、くらいのつもりだったのだが、不特定多数の方が目にするということを考えたら、ちょっと腰が引けてしまった。しかし、今さら、「Kiss」といった口で、「やめます」ということもできず、覚悟を決め今日に至っている。勘違いというのも新たな行動を起こすキッカケになるという意味では、まんざら捨てたものでもないかもしれない。勘違いから始まる恋もあるし・・・。

私の投稿サークルへのスタンスは、やはり、≪つぶやき+ツッコミ≫である。毎日の生活の中で見聞きしたことや自分の身の回りの小さい出来事を通して、自分が感じたこと、考えたこと、妄想したことなどを文章にして書き溜め、つぶやきとして投稿したものに軽いツッコミを入れてもらえたら最高!「Kiss」=唇で人に接するように、つぶやくことを通して多くの人と接することができたら、という思いで投稿することにした。以上、投稿サークル「Kiss」の私のファーストキス宣言。(7期生 斉藤喜久枝)