2024-09-11
最近、家庭菜園で野菜作りをする人が増えているらしい。実際手広くやっている方も多いと思うが、私も毎年夏場には、ネコのヒタイのような我が家の庭で、簡単な野菜を作っている。キュウリ、トマト、ナス、ピーマンなど、比較的作り易いと言われている夏野菜を育てては朝食の足しにしている。ポットという大きな植木鉢に植えるか、何本かは地植えにする。今年もポットと地植えに数株ずつ植えた。
4,5月ころホームセンターで苗木を買ってきて植えるのだが、今年は何を何本育てようかと悩むところから夢が始まる。定期的に肥料を施し、脇芽を取ったり、伸びすぎてきたら仕立てと言って適度に剪定をする。さほどの作業ではないが、絶対欠かせないのが水遣り。このところの夏のように毎日酷暑が続くと、1日2回の水遣りは欠かせない。だから夏になったら旅行はご法度。ペットを飼っている人が旅行に行けないとよく聞くが、動物のみならず植物もまた然り。今年はちょうど実が生り始めたころの地植えのキュウリを一株枯らせてしまった。花壇で花を育てるのも楽しいが、生り物は食べられるからいい。朝、採ってきてそのまますぐ食べるのは、なんとなく嬉しく贅沢な気分になる
私の野菜作りなどは「おままごと」みたいなものだが、実際に、都会でも作物を作ることは大変大事なことだと思う。経済学者の森永卓郎氏はそのことを常に提唱しており、自らもかなり大規模に農園をやっているらしい。さすがにお米は難しいだろうが、野菜類は自家消費の何倍も作っているようだ。
この野菜作りは楽しいと言うだけの話だけではない。食糧難の助けになる。実際、現在の日本の食物自給率は37%とOECDの中でも最低クラス(下段表)。事実、化学肥料はほぼ100%輸入。野菜のタネは9割が輸入依存。種子法の廃止や種苗法の改定などで自家調達が困難になりつつあり、コメのタネも狙われていると言われている。もしそうなったら日本の食物自給率は10%以下に下がると言う試算まである。
昨今、日本を取り巻く情勢は危険な状況だ。万一紛争が起こったら、まず第一に食物の輸入に影響する。日本が戦争状態にならずとも、この度のウクライナ戦争のように、あっという間に小麦の価格が上昇する。どこの国も自国民の食料が優先で、たとえ友好国であろうと他国への食物の援助は二の次、三の次だ。すると、食物自給率の低い国は、まず、食糧不足が最初に起こる。満足にごはんが食べられなければ戦争どころではない。生きていけない。
前述した森永卓郎氏は、日本の農政に対し極めて厳しく批判をしている。安全保障というなら、食料安保が最も重要。トマホークやオスプレイに莫大なお金を投じるより、まず農政の予算を増やし、食物自給率を大幅に上げることが最優先課題だと。
紛争などが起こらないよう願うばかりだが、気候変動なども食料不足の大きな要因である。その練習ではないが、自分で野菜の一つでも作れるようになっておくのも必要か。それは、労苦の厳しい畑仕事でなくても、ベランダで楽しい野菜作りから始められる。食料危機にどこまで役立つかはわからないが、自分で食物を植え、育て、収穫して、食す。これって人間の基本の営みではないだろうか。Let’s
enjoy野菜作り!(7期 佐野英二)
2024-03-11
東博で開催中の中尊寺金色堂展を見てきた。昨年秋、友人と東北旅行に行き実際の金色堂を見てきたのだが、その思い出も手伝って行ってみた。
武士が勃興し始めた平安時代末期、奥州平泉で藤原清衡、基衡、秀衡の藤原三代が栄華を極めたと言われ、その清衡によって1124年ころに建立されたのが中尊寺金色堂だ。清衡の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた前九年・後三年の役の戦乱で死んでいったあまたの霊を敵味方の区別なく慰め、辺境の地とされていた「みちのく」に、仏の教えによる平和な理想社会を作るというものだったと言われている。戦乱で父や妻子を失い骨肉の争いを余儀なくされた清衡自身の非戦の決意でもあった。平泉は約100年に渡り繁栄し、みちのくは戦争のない平和な時代だったが、戦の火は再燃し、四代目泰衡は頼朝の圧力に屈し義経を打ったが、自らも頼朝に攻められ1189年奥州藤原氏は滅亡した。清衡の非戦の決意はあっけなく打ち砕かれてしまった。
時代は下り、江戸時代前期、松尾芭蕉が此の地を訪れ、
「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたにあり。(中略) 偖(さて)も義臣すぐつて
此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。(中略) 笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし
侍りぬ。 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 」
と、名作『おくのほそ道』に書いた。芭蕉も度重なる戦で多くの尊い命が虫けらのように消えていったことに、思わず「涙した」のだろう。
それから1000年近く経った今、翻って今の世界を見ると、なんとも悲惨な光景ばかりだ。人類の英知は戦争をなくし、平和な世界を作ることが出来なかった。中世の清衡公は平和な理想社会が訪れることを祈念して中尊寺を建立したが、人間が人間を殺すという、最も野蛮な行為はいまだに続き、いや、ますますエスカレートして、果てることのない殺し合いが世界中で続いている。芭蕉翁が涙した「兵ども」の戦い、中世の一対一の殺し合いが正しいとは言わないが、今は大量破壊兵器という多くの人間を一発で殺すことが出来る兵器があたりまえ。また、何十万、何百万人かわからないくらいの人間をアッと言う間に死に至らしめ、そして地球自体をも破滅させるような核兵器がすでに何千発、何万発と存在する。「夢の跡」どころか、重装備の軍隊、いやそれ以上の大量殺人兵器が世界中を闊歩し、「より殺傷能力の高い兵器」の開発や、それを売りこむための宣伝がまかり通っている現実。そして核兵器禁止条約にさえ参加しない唯一の被爆国、日本。
今も世界中のあちこちで、殺し合いが行われている。昨日も、今日も、明日も。目を覆わんばかりの光景が、毎日ニュース放映されている。イスラエル建国後難民となり、36歳で爆殺されたパレチナ人作家カナファーニーが残した小説、『ハイファに戻って』の一節、「この悲劇が自分の身に起こったらと想像してくれ!」。
(7期) 佐野英二
今年(2023年)の夏は、暑かった。と、毎年同じことを言っているようだが、今夏は特に群を抜いていたようだ。気温などのデータが、更新というより大きく塗り替えられた。東京の最高気温の平均値は平年比+2℃以上。30℃超えや35℃超えの日数も平年の倍。温室効果ガスなどによる地球温暖化(いや、地球沸騰化と国連の偉い人が言った)現象だけでなく、太平洋高気圧や海面温度など、様々な要因があったようだが。日本は地球はどこまで暑くなるのだろう。そのうち東京には人が住めなくなってしまうのでは、と心配になる。
で、この暑さを乗りきるには、やはり冷奴をつまみに冷えたビールを飲むことであろう。と、いきなり軟弱な話になる。というのも、先日「高野豆腐店の春」(写真下左)という映画を観てきた。広島県尾道を舞台とする、一軒の豆腐屋の話。老年に差し掛かった店主と、唯一の従業員である離婚して実家に戻っている娘との、明るく爽やかなストーリーである。毎日、毎日、陽が昇る前からおいしい豆腐を作るため、愚直に豆腐作りを続けている父と、それを支える娘。尾道の風土と一軒の豆腐店、そしてその周りの人間味あふれる人たちとの日常と非日常。舞台の場所柄、被爆問題もストーリーに綾を成している。人って、こんなに素直で明るいものなのだとあらためて感じる。楽しければ笑い、怒れば喧嘩をし、悲しければ泣きそして嬉しくても泣く。見終わって、気持が晴れやかになる素晴らしい映画だった。こちらも笑いながら涙が止まらなかった。
私の子どものころ、夕方になるとラッパを吹きながら毎日自転車で売りに来る豆腐屋のお兄ちゃんがいた。そのラッパ(写真上右)は「トーーフィーー♪、トーーフィーー♪、」と聞こえる。すると近所のお母さんたちがぞろぞろ出てくる。皆、お鍋やホーローのボールを持って。今のようなプラスチックの入れ物やビニール袋は要らない。記憶は定かではないが、多分毎日。でも、昔は毎日豆腐や油揚げを食べていたのだろうか。そして彼は豆腐だけでなく、お母さんたちを相手にしばらくの間、油を売って、帰って行く。
もう一つの豆腐屋の思い出は、私の家の近くの電車通り(かつては都電が走っていたので大通りを電車通りと呼んでいた/写真左)に一軒の豆腐屋があった。だが1960年代、都電の廃止が進み、新たに地下鉄建設の工事が始まると、そのお豆腐屋さんは廃業してしまった。地下鉄工事のため、使っていた井戸が出なくなったためらしい。水は豆腐屋の命だったのだろう。時代はオリンピックあたりからの高度成長期。都電やお豆腐屋さんが消えて、ビルや高速道路が増えていった。ノスタルジーだけでは生きていけないが、失ったものと得たものは何だろう。
さて、今日もスーパーの豆腐を食べながら冷えたビールを飲みますか。この先の風景がどう変わって行くかを想像しながら。(7期生 佐野英二)
2023-03-21
コロナパンデミックになって以来、旅行は久しく行っていない。たぶん都県境を超えたのも、この3年間で数回かもしれない。
2月末、大阪に用事が出来たので久しぶりの旅行となった。大阪での用を済まるだけで帰って来るのはいささかさみしいと思い、ちょっと足を延ばして城崎温泉に行って見ようと思いついた。城崎温泉。今まで行ったことはなかったが、もちろん小説で名前は有名だが、さてどんな処か。朝10時12分大阪発城崎温泉行き、特急「こうのとり5号」に乗り込んだ。福知山線と山陰本線を乗り継ぐ形で、おおむね京都府と兵庫県の県境付近をほぼ北上し、日本海に至るという鉄路だ。尼崎、宝塚などの市街地を抜けると、列車は山の中に入って行く。
本を読んだり、窓の外を眺めたり、早春の日差しがまぶしい。何という川か知らないが渓流が右に左に移動する。篠山口という駅に着いた。丹波の黒豆で有名な丹波篠山と言われている地方で。以前大阪に住んでいたころ大地震(「阪神淡路大震災」)に遭遇し、その復興疲れの息抜きにと知り合い数人で此処に牡丹鍋を食べに来たことがあった。列車は福知山に到着。北近畿タンゴ鉄道宮福線という天橋立方面に行く列車が同じホームにほぼ同時に到着。こちらとむこうの列車を互いに乗り換える旅行客数人。福知山は明智光秀が築いた城下町。列車の車掌が右手に天守閣が見えますとアナウンスしてくれた。道中、高い山脈はほとんどないが、それでも篠山盆地、福知山盆地、などなど山の中。トンネルをいくつも抜ける。「~いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立」と歌われた丹後山地の大江山も標高わずか833m。低山ではあるが四方が山に囲まれているのが、まさに盆地だなあと、当たり前なことに感心してみる。
さて、今乗っている列車は「こうのとり5号」だが、なぜ「こうのとり」か。目的地の城崎は現在豊岡市となっているが、ここ豊岡はコウノトリの繁殖に力を入れている。かつて日本海に注ぐ丸山川や豊岡盆地などでコウノトリは普通に生息していたが、戦時中彼らの営巣場所だった松が伐採され、また戦後の乱開発により彼らの居場所がなくなり1971年絶滅。ここ豊岡が日本での「コウノトリ最後の生息地」になってしまった。その後、人々の努力によって人口的な繁殖に成功し、いまではその数が徐々に増えてきているという。
列車は12時51分に城崎温泉駅に無事到着。
むかし、傷ついたコウノトリが羽を休めており、飛び立った後に行ってみたら温泉が湧いていたという伝説もあるようで、温泉宿の歴史は奈良時代にも及ぶ。温泉街は、一級河川円山川に合流する水路のような大谿(おおたに)川沿いに形成され、数十メートルおきに小さな橋が架かっており、川の両側に「温泉外湯巡り」という7つの外湯や、旅館、土産物屋、飲食店などが軒を争っている。
志賀直哉が山手線にはねられてその養生のため3週間ほどここに滞在したと言うが、小説が醸す鄙びた風情より、どちらかというと若い女性に人気がありそうなかなり今風な街並。100年前の此の地で、“小説の神様”は療養のかたわら飛翔するコウノトリを眺めながら名作「城崎にて」を執筆したのだろうか。(7期生 佐野英二)
2022-09-21
私は野球観戦が好きでよく球場に行く。テレビでも充分堪能できるが、やはり球場に足を運んで観戦した方が楽しい。人によってはわざわざ出かけなくてもテレビの方が見やすいし何度もリプレイしてくれるのでこちらの方が良いという人もいるし、あとでビデオを見るという人もいるだろう。でも、やはり現場の方がいいという人は多い。なぜ現場の方がいいのか。現場とテレビの違いはどこにあるのだろう。
例えばコンサート。今、音楽はCDやインターネットで聴くことが出来、雑音もなく、かえって良い環境かもしれない。でも多くの人はコンサートやライブ会場に、時間とお金と労力をかけて出かけていく。展覧会も、国内外の本物の絵画や秘仏が展示されたりすると、何時間も待って見学する人が多い。興味のない人からすると無駄なように見えるが、本物を見たい、共感したい、また感動したい、といろいろな気持ちからみなさん出かけていくのだろう。
その答えになるのか。上智大学の佐藤啓介教授が、その点について興味深い説明をしていたので、要旨を紹介したい。
それは「本物の美しさ」ということらしい。佐藤教授の説明では美術品に例を取っているので「美しさ」と言っているが、たぶんスポーツや芸能、音楽などにも共通する概念と言えると思う。20世紀前半のベンヤミンという思想家が唱えたこととして、「芸術を見ることは礼拝的価値」があるということらしい。西欧の価値観ではあるが、ルネサンス以前の芸術は人に見せるというより神に見せる、又は祈りをささげるためにあったと。芸術作品の制作は、礼拝に役立つものの制作から始まったとのこと。そしてもともと礼拝的価値だったものが今日の展示的価値に変化してきたものという。そして、この本物の美しさを体感すること、この体験はこの時空で一度きりしかない。佐藤教授はその一度きりの体感を、「一回性のオーラ」と表現している。その時間、その場所で、そこにいる人が、それを見・聴き・感じる。これが「一回性のオーラ」だと。つまり、かつては神を崇拝する行為であったが、現在は芸術作品を静かに見ることが「一回性のオーラ」の再現になるという。左図出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/
ライブとCDの違いは、「一回性のオーラ」を体験したいという具現に他ならない。これは映画にも言える。映画は実際ではない映像であるし、繰り返し何度でも見ることが出来るが、この時間、この劇場、この空間で同じ人達と感動を共有している点で、テレビとは大きく違う。つまりこれも「一回性のオーラ」を体験していると言えるだろう。テレビやレコード、ビデオ、レプリカ、模造品、インターネットなど、複製芸術が進歩すればするほど、一回性のオーラが際立って、そこでしか味わえない体験を求めるようになる。ある意味、本物の希少価値化が進む。畢竟、「本物のありがたさ」をもとめて人は、現場にむかう。
現場に行くと、なんとなくいいなあ、感動するなあと思うのは、人間に内在している宗教的感性に繋がっているのかもしれないが、必然的な気もする。現場に足を運び本物を鑑賞したがるのは、人間の根源的な欲求によるものかもしれない。
たかが野球観戦、されど野球観戦。
(7期生) 佐野 英二
2022-03-21
前回の投稿者は分身ロボットカフェをテーマにされていたが、そのことに私も触れてみたい。
その投稿は、コーヒーを淹れるロボットを遠隔操作するオリヒメと呼ばれる分身ロボット=実際は遠隔地でパソコンを駆使しロボットを操作している=が紹介されていた。まるでロボットがロボットを操作している錯覚に陥りそう。もちろん人間が操作しているわけだが。
このカフェでは、そのほかのロボットも働いている。身長1mくらいのロボットがお客の前に来て注文を取り、また、食事を運んでくるといった一連の作業をする。これも、単に無人のロボットがマニュアル通り動いているのではなく、冒頭のように遠隔地で人間がそのロボットを操作しているわけで、実際に客と会話もするし、一連の作業もする。つまり接客=メニューを説明し、オーダーを受け、キッチンに伝え、出来上がったら客の席まで運んでくる。あたかもロボットの中に人間入っているかのよう。もちろん、健常者を含む現場のスタッフの存在は不可欠ではあるが。
これらのロボットたちを操作しているのは、何らかの事情でその現場にいない人たちだ。障害などがあり現場に行くこと・居ることが出来ない人、他人と対面しづらい人、また身体を動かすことが出来ない人など事情はさまざまだ。だから自室から出ることが出来ないALS患者などにも開かれる。これはロボットの社会ではなくロボットを介在した障害者、外出困難者の新しい働き方だ。このカフェはまだ実験段階ではあるが、将来採算ベースにものり、普通にあるお店になって行くことを期待したい。
この「オリヒメ」というロボットたちを開発研究している、オリィ研究所所長の吉藤氏は「オリヒメは着ぐるみの様なもの、だから、パイロット(オリヒメを捜査する人)はコミュニケーションに前向きになれるのです」「オリヒメはコミュニケーションを補助し、人と繋がり孤独を解消するためのロボットです。だからオリヒメの中身は人間でなければいけないのです。」と言っている。
この分身ロボットのメリットをまとめると、①行動の一部を代わってもらえる、②感情表現が可能、③身体の不自由な人も遠隔操作できる、④孤独の解消などが挙げられている。
もちろんデメリットも容易に想像できる。対面業務の難しさ、ロボットであるが故の作業の質と量、また、不正アクセスや故障などのアクシデントも充分あり得る。まだまだ難しい問題たくさんあると思われるが、一つ一つ解決されていくことだろう。
今後、「オリヒメ」達が目指すものはなんだろうか。
・本人の代わりに世界中どこにでも行って、見て、聞いて、話すことが出来る。
・今回紹介したカフェを始め、ショップや公的機関など接客・会議などコミュニケーション業務の発展・
充実に貢献できる。
・医療分野としては、現場で働く人や患者の負担軽減、また感染予防の点からのメリットなど様々な効果
を生む。
また教育の現場でも、不登校児童・生徒の代わりに授業に参加できないかなど、「出来ない」ではなく、『「出来る」を増やすことによって人間はポジティブになれる。』ということを、「オリヒメ」達はスローガンにしている。
此度このカフェを訪れて、あらためて「可能性」について考えさせられた。最後に、傷害者スポーツの先駆者ルードウィッヒ・グッドマン博士の言葉を引用してみたい。
「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」
(7期生) 佐野英二
2021-09-21
いつまで続くのか、コロナ禍で自粛、自粛と言われ、あまり外出をしない生活を余儀なくされて久しい。今年(2021年)はほぼ一年中緊急事態宣言下にあり、これでは『通常』事態宣言ではないか。とぼやいていても始まらず、コロナと暑さで家ばかりいても、心と身体の健康に悪い。近場で暑さを凌げるようなところはないかなと思い、ふと都立庭園がよぎった。
六義園というところは、私の家からさほど遠くないので、今までも何度も散歩がてら訪れてはいたし、他の庭園も1、2度は行ったことはあると思っていた。東京都HPに「江戸・東京の庭園に行こう」というキャッチフレーズで九つの庭園が紹介されている。今年前半は休園していたが、6月ころから開園を再開している。
よし、ではこれら九つの庭園を一気に巡ってみようと思いたったのが、今夏の私の企画である。安易で安上りな都立庭園行脚。よく見ると3箇所は未体験。手始めに、一番近い六義園から始めた。名称を挙げてみよう。浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、六義園、向島百花園、清澄庭園、旧岩崎邸庭園、旧古川庭園、殿ヶ谷戸庭園、の九つ。
それぞれ江戸徳川幕府の大名庭園の流れを汲むもの、明治以降の財閥の私邸だったもの、また江戸町人文化の中で作られたものなど由来はいろいろであるが、いずれも国や都が特別名勝、特別史跡、重要文化財、など様々な形で指定している。広さは浜離宮の25万㎡から向島百花園の1万㎡まであり、見学時間や歩行距離には多少差ができる。また入園料は70円から150円程度(シニア料金)とお安い。(70年代のころは無料だった時期もあった)
中央区、港区、文京区、墨田区、北区、江東区、国分寺市と、いずれも都会のまん中にあるのだが、これが何と静寂なことか。
一歩足を踏み入れると、街中の喧噪や暑さから解放されて心が洗われる。個々の特徴はさまざまだが、鬱蒼と木々に覆われている所も多い。ベンチで本を読んでいると時の経つのを忘れる。お弁当を持ってきてもたぶん誰にも咎められないだろう。また、コロナで密を避けよと言われているが、私が訪れた限りででは、季節のせいもあろうが、特に平日は人がほとんどいない。まるで自分一人の庭園であるかのよう。私は大名か?
残念ながら、真夏であったので花を楽しむには時季が合わなかったがサクラ、アヤメ、フジなど多くの花が咲き誇る季節にまた訪れてみよう。春夏秋冬いつでも楽しめ、しかも入園料は安いし、交通費もたいしてかからない。
皆さんも、近場の公園・庭園での心身のフレッシュアップをされたらいかがでしょう。ぜひお勧めします。これからは紅葉の季節ですね。
7期生 佐野英二
2021-04-11
最近コロナ禍で外出が減り、ふと周りを見回して私の地元である豊島区ってどんな処?と思い、ご存じのようにわが立教大学が在る豊島区というところを少々探訪してみたいと思います。
私の住んでいるのは、東京都豊島区巣鴨というところ。 このあたり、江戸時代までは武蔵野国豊島郡と言われていたようだ。当時豊島氏という豪族が今の豊島区、北区、練馬区、板橋区など現在の東京の城北地区一帯を治めていた。
豊島氏は室町末期ころ太田道灌に滅ぼされたらしいが、地名だけは今でも随所に残っており、昨年2020年に閉演した豊島園(練馬区)もその一つ。明治時代はこのあたりを北豊島郡と言い、その後東京市が発足しそこの4つの町村が東京市に編入されて、今の豊島区の原型ができたとのこと。その時の区名候補に「池袋区」があったらしい。
ところで皆さん、現在の豊島区をどの程度ご存じでしょうか。
特徴①:日本の市区町村の中で、人口密度全国第1位。
特徴②:その人口規模は東北地方の県庁所在地とほぼ同じ。
特徴③:2014年に日本創生会議から名誉ある?『消滅可能性都市』に挙げられた
東京23区中唯一の自治体。
おまけ④:山手線の駅が5つある区。
①から④を説明しましょう。
①国内の市区町村の数は現在1800ほど。その中で豊島区は人口密度が約23,000人/㎞と、全国第1位。(2位は中野区、3位は荒川区)。面積は13k㎡。人口は約30万人で全国86位。参考までに、区別の人口は、最多は世田谷区の92万人、最少は千代田区の6万人。
②30万という人口規模は全国的にみるとどの程度か。これは仙台市をのぞく、東北5県の県庁所在地、青森市、秋田市、盛岡市、山形市、福島市と大雑把に言うとほぼ同程度。だが、これら東北5市は面積が豊島区の30倍から70倍もあるので、人口密度は当然30分の1から70分の1になる。
①と②をないまぜにすると、なぜか前述の③になる。2014年に日本創生会議が消滅可能性都市というのを発表して物議を醸したことがあった。若い女性数の減少と流出人口の増加で、全国自治体の約半分896市区町村が2040年までに存続できなくなるという発表だった(実に大胆と言おうか、いいかげんと言おうか)。その896の消滅可能性都市の中に人口密度全国第1位の東京都豊島区が入っていた。その時、豊島区役所は大騒ぎになったが、最近この話題はあまり聞かなくなった気がする。
おまけの④。東京をあまり知らない人に聞けば、「山手線というのは東京の中をグルグル廻っているらしい。山手線の駅が30ほどで、区は23だから、概ね1区1駅弱あるのかな」と思う人もいるかもしれない。だが山手線の駅がある区は千代田区、渋谷区、新宿区など10区ほど。その中で、23区中かなりマイナーな豊島区に、乗降客数は池袋を除けば30駅の中で下位ではあるものの、5駅もあるのは、別に偉いわけでも何でもないが、なんとなく不思議だ。目白、池袋、大塚、巣鴨、駒込と(東京近辺に住んでいても乗り降りしたことがない人が多いかもしれない)
すでに桜の季節も終わってしまったが、ここはソメイヨシノの発祥の地でもある。巣鴨・駒込近辺を染井というが、江戸時代の植木職人がここ染井で、エドヒガンザクラとオオシマザクラを交配させて作ったのが今のソメイヨシノ。「染井でできた吉野桜」という意味か?当時の新種であるが、現在は日本の桜の7、8割を占めるらしい。
来年もきれいに咲いてくれるであろう立教大学正門の桜に思いをはせながら、豊島区について考察してみました。 (7期) 佐野英二
2020-10-11
新型コロナウイルスの騒ぎで外出が減ったせいか、何となくテレビやラジオを聴いていると、この表現はちょっと面白いなあとか、この言い方ってなんか変、などど、内容とは全く関係ないことに目が行く(いや耳が行く)。つい先日NHKラジオで言語学者金田一秀穂氏の講演が流れていた。金田一氏は、祖父京助、父春彦を持つ日本における言語学の中心的な家系の人物。その放送の中でいきなり「イヌとネコ」と言いますか、「ネコとイヌ」と言いますかと始まった。
私はこういった、どうでもいいけどでもちょっと不思議な日本語の話が大好きで、いつもながら興味深く聞いていました。どちらが先でも、もちろん誤りなわけはないが、どちらかというと「イヌとネコ」のほうが聞きやすい(言いやすい)と感じる人が多いようだ。(英語ではCats&Dogs?)
金田一先生は続けます。では「男と女」?「女と男」? 強調したい方を先に言う? まあ男を先に言う方が多いか。右(みぎ)左(ひだり)はどっち? 熟語では左右(さゆう)で右左(ゆうさ)とは言わないのに、右(みぎ)左(ひだり)のほうが言いやすいか。裏(うら)表(おもて)は? これも音読みだと表裏(ひょうり)。「りひょう」とは言わない。「浮き沈み」は、これも「沈み浮き」とは言わない。(中国語では「沈み浮き」というらしい)この「右・左」や「裏・表」には一応は正解があるようだ。ひらがなだと2音が先で、3音を後にする方が語感の据わりがいいと感じる意人が多いから。西東(にしひがし)というが東西(ひがしにし)は言いづらい。熟語にすると東西(とうざい)なのに。
手足(てあし)も同じ理屈。1音が先で2音があと。足手(あして)とは言わない。こういった表音にルールは無いようだが、何百年かかかってこっちがいいと多くの人が感じるようになったのだろうか。だから文化の発達のしかたが違うと、たとえば方言のように異なった発音や言い方などになって表れているのかもしれない。
さらに金田一先生は数のかぞえかたにも言い及びます。「一日おきに会う」って、今日会ったら明後日会うことと思いますね。でも1日は24時間です。「24時間おきに会う」としたら、明日のこの同じ時間にまた会わなければならない。
「オリンピックは4年おきに行われる」? つい4を足したくなるが、4年おいたら5年後になってしまう。まあ「毎」を使えば間違いにくい。「一週間おき」と言ったら、来週の今日?再来週の今日? それとも一週間(7日)おいちゃうのだから、来週の明日? もうなんだかわからなくなってくる。
「前」って未来?過去?
前を向いて生きていこう(輝く未来ですね)
3年前にあの事故が起こった。(過去だよね)
「この後どうなるか」 (これは未来)
「後始末」(過去の過ち?)
「過去」だか「未来」だか、さっぱりわからなくなってきた。要は文脈で判断しているのですね。
他の言語は知らないけれど、日本語ってかなり面白い言葉だと思いませんか。普通に使っている言葉の中にも面白く、変わった、奇妙なことが多い。でもゆっくり考えてみるとすごく味わい深いなあと感じてしまいます。
コロナに何人感染したかという表象的なことだけでなく、この言い方うまい、この言葉、変じゃない?などど、ニュースも違った側面から聞いていると、案外コロナも面白い。終息と収束。違いを意識して使っているか、たまたま検索で先に出てきた方を使っているか。そんなことをコロナ下で思っています。(正確にはコロナ禍下?)
(7期) 佐野英二
2020-05-21
今年(2020年)は、年初から世界中で新型コロナウイルス(正式名:COVID-19)というとてつもない感染病が世界中に広がり、日増しに猖獗を極めている。そのため、国内外を問わず、経済的・社会的生活の制限が強化され、外出もままならない日々が続いている。この終息が長引けば、人類の危機にまで言及する論評もあるが、少なくても人間の生活様式が大きく変化する可能性は大いにあり得そうだ。
この度の災厄に限ったことではないが、最近の世の中の変化は、所謂IT化ということに影響されて、大きく変化して来ている。人間関係が希薄になり、人と会話をしない、仕事もテレワークなどという、人間と人間が直接会ったり話したりしないことが常識になっていくのか。世の中は、人と人が絡み合って社会を作り、その社会の中で人間が生き、人間社会を発展させてきたはずだ。現在の人類が出現して数万年。その間進化させて来たそういう人間性そのものが、この数十年くらいであっという間に変わっていくのだろうか。そんなことを思っている昨今、手塚治虫のライフワークというべき「火の鳥」を読み返してみた。ちなみに私は氏を私淑し尊敬しているので勝手に手塚氏を“手塚先生”呼んでいる。
「火の鳥」という漫画は読んだ方も多いかと思うが、この大スペクタクルシリーズは時間と空間を超えた壮大な人間ドラマである。狂言回しとでも言おうか、このシリーズのすべての語り手である火の鳥。鳳凰、不死鳥、ファイヤーバードなどと呼ばれ、世界の伝説に登場する不老不死の鳥を擬人化し、すべての時空に存在しうる宇宙生命「コスモゾーン」と位置付けてある。小は分子、素粒子から、大は現世界から地球規模、太陽系、銀河を超え、無限に広がる宇宙の果てまでも一つの宇宙とみなし、そのすべてを見渡せる能力のある火の鳥が、時間、空間を超えて見てきたことを語っている物語である。場面の設定は、日本や世界の古代社会の話、中世、近代の世の中、そして近未来やとうとう破滅を迎える地球最後の日など。また、地球外の惑星でおきたこと、宇宙空間で地球人が体験したことなど様々な時空に亘る。
物語は、そんな中未来の地球では人類はとうとう巨大コンピューターに完全に支配される世の中なってしまい、人間はそのコンピューターの言う通りにすべて行動し、すべてが存在している。ある時4大都市にあるそれぞれの巨大コンピューター同士の意見の相違が起き、対立が戦争を引き起こし一瞬にして地球が破滅する。それでも火の鳥は人間をあきらめず、一人の人間を選びもう一度初めからやり直させようとする。このように展開していくドラマである。
この作品を書いた手塚治虫が、今日日のコロナ禍を予言したとは思わないが、多くの時代の事象を想い・創り出したこの天才の作品を読み返すにつれ、いま、我々求められていること、しなければいけないことはなにかを考えさせられる。地球が病み、それをもたらせた人間自身の社会的営みそのものが変質して行きそうな今、私たちがすべきことは何かを、作品の中からひとつでも読み取れたらと思う。
栄華を極めたある生物が衰退・滅亡していく様を見ながら、火の鳥が述懐する場面がある。
「高等な生物だったこともあった。ここではどうしてどの生物も間違った方向へ進化してしまうのだろう。
人間だって同じだ。どんどん文明を進歩させて、結局は自分で自分の首をしめてしまうのに。(略)でも
今度こそ信じたい。今度の人類こそきっとどこかで間違いに気が付いて生命(いのち)を正しく使ってく
れるようになるだろうと」出所: 手塚治虫「火の鳥:未来編」(角川書店)P281-282
(7期) 佐野 英二
2019-11-11
秋はサンマ(秋刀魚)がよく似合う。サンマの塩焼きは、日本の秋を彩る錦絵だ。標題の「さんま苦いか塩っぱいか」はご存知の方もいらっしゃると思うが、詩人佐藤春夫が書いた詩で、捨てられた人妻、妻にそむかれた男、愛薄き父を持ちし女の児などが登場するなんとも悲しい雰囲気の中でサンマを食す「秋刀魚の歌」の一節である。それはともかく、熱々で、ホクホクで、はらわたは脂がのってほろ苦く、皮は香ばしく焼きあがり、それにスダチがよく似合う。なんともよだれが出て来そう。
サンマは江戸中期ころまでは下魚(げざかな)の類とされ、食用ではなく長屋の明かり用の魚油(菜種油よりかなり劣悪)として使われていたらしい。食用として庶民の口に入るようになったのは江戸中期以降。落語にもあるよう、しだいに武士の中にも広まっていったようだ。そんなサンマであるが、最近漁獲量が減り続き、今年(2019年)はかなりの不漁とのこと。考えられる原因は大きく3つ。①そもそもの資源量が長期的に減少、②海水温上昇により回遊地域が日本近海から北方遠洋に移動、③他国が排他経済水域外で大量捕獲。
それぞれの考察は後で述べるとして、サンマの旬は、晩夏、秋、晩秋、それぞれ特徴があるようだ。サンマは、水深10mほどの表層で、水温10~20℃の日本の沖合いから米国沖までの広範囲の北太平洋を回遊している。日本の南方で産卵され、冬場に生まれた稚魚が黒潮に乗って北上する。遠くベーリング海から来る親潮が栄養豊富な動物プランクトンを運んで来るが、春から初夏に掛けてサンマたちは、それらをパクパク食べ成長し、脂がのってくる。そしてオホーツク海から北太平洋に8月ころ近づき、国内水揚げ第一位の花咲港など北海道近海で第一の旬を迎える。その後、彼らは南下を続け、大船渡、気仙沼に代表される三陸沖で水揚げのピークを迎える。そして11月以降になり千葉沖まで南下してくると、脂肪分が数%まで落ちて、すしや干物に適した味になっていく。
さて、漁獲量の減少についてだが、まず、資源量の減少。これはあくまで推定量ではあるが、調査が始まった2003年は502万トンだったが、18年は205万トンまで減っており、今年(2019年)は推定142万トンと過去最低だった17年(86万トン)に次ぐ低い資源量。これだけ見ても漁獲量が減るわけだ。それに加え第二の原因は海水温の上昇。サンマが好む水温は15℃前後。しかし2013年ころからこの時期の水温が16~18℃と高くなっている。畢竟サンマの群れが北の冷水海域にとどまり、日本沿岸になかなか近づかない。
さらに輪を掛けてと言うか、台湾(00年頃から)、中国(13年頃から)など外国船が日本の排他的経済水域(EEZ)外の公海で、北海道近海に来る前のまだ小さいサンマの群れを、「冷凍」設備をもつ1000トンクラスの大型船でゾックリ漁ってしまう。日本の漁船は200トン未満の小型船で、近海で漁をし「氷蔵」して水揚げしていたが、そうでなくても資源量の減少や水温の影響で日本近海での漁が難しくなったため、燃料をたくさん使い、脂の乗りが悪いまだ小ぶりのサンマを、危険を冒して遠洋まで獲りに行かざるを得ない。つまり、いろいろな要因が折り重なり、いま日本のサンマ漁は厳しい局面にあるという。
さて、サンマは漢字では秋刀魚と書く。すし屋の湯呑には「鰤」、「鯵」など「魚へん」の文字が並んでいるが、さて、サンマは「魚へん」ではどう書くかご存知ですか。この安くて旨く滋養に満ちたサンマ。だが、そのうち高級魚になって私達の口には届かなくなるのだろうか。
秋刀魚、苦いか塩っぱいか。
7期生 佐野英二
2019-04-14
カラスがごみ袋をあさってごみが散らかっていることを多々見かけるが、でも最近東京ではカラスが少なくなったような気がする。2001年ころは都内でのカラスの生息数は36,000羽くらいだったらしいが、2004年ころに20,000羽を下回り、ここ2-3年は10,000羽を割るまで減ってきているようだ。(どうやって数えるのかわからないが)。だがこれは自然減でなく、カラス被害の苦情に答え、都や市区などが人為的な捕獲や巣の撤去、ごみ対策(兵糧攻め)などが奏効したということ。
ところで野生生物にとって、緑豊かな森林地帯と、コンクリートに囲まれた都市空間と、どちらが棲みよい環境か、と問われれば、当然前者と思うだろう。でもカラスをはじめ、ツバメやスズメ、また鳥に限らずタヌキやアライグマ、またハクビシンなどという動物も、都会で生きその数を増やしているそうだ。
私は、数年前、全カリで松原始先生(カラス研究の第一人者)の「都市と野鳥」という授業を受け、とても勉強になった。都市は人間が自分たちにとって住みやすいように作り上げたもので、人間以外の動物の都合は全く考えてはいない。当然、動物にとって都市空間は棲みにくいはずである。しかも人間はかなり大型で賢い動物であるので彼らの敵となるには十分であるし、また捕食以外の目的で攻撃してくるという意味でもすべての動物にとって最大の天敵とも言える。だが、人間は彼らを取って食べる習慣がない。そして本来の天敵である大型動物や猛禽類は都会にはあまりいない。しかも都会は、営巣、採餌という面でなんと恵まれた環境なのだろうと驚かされる。
当然生態系の中で生きているので動物のなかでも、鳥類だけがとりわけ繁栄しているわけではないが、鳥類は人間=都市との関わり合いが大きな生物であろう。とくに都市と密接に関係が深いのがカラス・スズメ・ツバメである。日本の都市に棲む種だけに限定しても、彼らは人間がいないと都市空間では生息できないようだ。カラスは通常、樹上に営巣するが、人口建造物の上にも作る。スズメは軒先など人家に拠るところに営巣し、しかも人里にしかおらず、廃村などで人間がいなくなるとスズメもいなくなるという。ツバメは100%人工物にしか営巣しない。
都市に棲むカラスの餌は、樹上で果実や昆虫、小鳥のヒナなども食べるが、動物の死体があれば必ず食べに来る。でも実は都会のカラスの餌は人間の出す生ゴミがその主であるようだ。云うなればカラスは東京都民が飼っている=給餌している、ということだ。
鳥類の塒(ねぐら)は多くは樹木だ。都市には建造物とともにかなり多くの樹木がある。大小の公園、道路に等間隔に植栽されている樹木、駅前などの街路樹、新宿御苑や明治神宮などの森林のような地帯など、都市のいたるところにねぐらに適した樹木が多い。これは都市には木がないという俗説とは全く正反対の事実である。つまり都市は棲みにくいどころか彼らにとってはかなり良好な環境といえる。それが生態系によいことかどうかはわからないが、今を生きる彼らにとっては取り合えず棲みよい環境だと思われる。
都市では野鳥といわれる多くの鳥類が多様に生息している。鳥たちもしたたかに生き、人間も迷惑を受けながらもそこそこ喜んだりもしている。だが私達は、鳥たち、または人間以外の生物たちと人間がどのように共存していかれるか、また、これが生態系、生命の多様性にどう影響するかを常に考えることが必要ではないだろうか。
7期 佐野(英)
2018-10-21
今年、2018年の夏は暑かった。東京でも35℃クラスの日が何日も続き、「もういいよ」という、諦めにも似たため息を毎日吐いていたような気がする。でも、秋は必ずやって来て、あっという間に肌寒い気候に変わってしまった。秋が好きな人は多いと思うが、私は秋はあまり好きではない。だんだん陽が長くなり暖かくなって行く春と、陽が短く寒さに向かう秋とでは、たとえ過しやすい季節と言えど、やはり気分の高揚感が違う。これは自分の原体験によるのかもしれない。
私は、5歳から10歳頃まで秋田に住んでいたことがある。生まれは東京なのだが、親の仕事の関係で秋田の山奥に移り住んだ。と言っても、親が「きこり」だったわけではなく、素材系の会社に勤めていた父が、鉱山(銅山)のある事業所に転勤になったため、家族で引っ越したわけだ。1950年代から60年代初頭までは、日本では石炭の採掘もまだ活況を呈していたし、鉄や非鉄金属も盛んに採掘されていた時期。そういうものを採るところは、山奥と言ったがまさに「山」そのもの。一応都会と言われているところに生まれた自分にとって、たぶん、月か火星に来たと思ったのではないだろうか。でも子どもだったので、そのときの感情はまったく憶えていないが、いま想い起こしても、そのとき見たり聞いたり、経験したりしたことは、かなりはっきりと記憶に刻まれている。
とにかく四季がはっきりしている。雪解けとともに小川が流れ、木々が芽吹くとあっという間に真夏の太陽が降り注ぐ。と束の間に、秋風が吹き一面の紅葉に彩られ、そして白以外の色は全くなくなり深い雪に閉ざされた長い長い冬が訪れる。
冬は、北国にとって宿命的なもの。その長く寒い冬が訪れる不安・焦燥・あきらめ。その冬を耐え忍ぶためのすべての準備に「秋」は使われる。厳冬期の暖房器具は薪ストーブだ。太さ50センチ以上もある丸太を、長さ4、50センチほどに器械で輪切りにしたものを、役場の人が各家々に何十個も配っていく。それを各家が、太さ10センチほどに割る。つまり薪割り。それを家の周りに縁の下から軒まで一面にうず高く積み上げ、それがひと冬の薪ストーブの燃料になる。もし足りなくなったら大変なことになる。それが家庭でもお店でも学校でもおこなわれる。
ふと空をみあげると、あの透き通るような夕焼け空に何千何万という赤とんぼが舞っている。それはこれから長い長い冬が来るという知らせでもある。子ども心にもそういう心寂しく、悲しい美しさが、はっきり刻まれた時であった。
冬は本当に長くて、寒くて、つらかった。冬季の体育はすべてスキーだ。雪さえ珍しい自分にとって、生まれた時から雪まみれで育った現地の子どもに混じって、リフトもない山をスキーを履いたまま登らされ、そしてあっという間に急な坂を滑り降りる。ずいぶん辛く苦しい思いをしたような気がする。私は憶えていないが、吹雪の中を学校から帰って来た私を見た母が、雪だるまが帰って来たと思ったと、冗談半分本気半分で言っていた。いまはどこの北国でも、舗装道路は除雪が施されているようだが、私のいた頃の秋田の山奥は、道も、家も、山も、一面雪に覆われてただただ真っ白な世界だった。その長い冬が終わり、雪が融けだし待ちに待った春がやってくる。今でもはっきり憶えているのは、世の中すべて真っ白だった雪の下から真っ黒い土がみえた、これは感動だった。
都会でも冬は寒い。秋は冬の前奏だ。秋はやはり、寂しい季節であると思う。 (7期 佐野英二)
2018-04-21
桜がいつ咲くとか咲いたとか、春になるとなにかと桜の話題で持ち切りだ。日本中に春を告げながら「さくら前線」が北上している。今年は例年より開花が早く、お花見の時期を逸してしまった人もいるのでは。
今年(2018年)、100年ぶりにサクラの新種(原種)が見つかったという報道があった。サクラの種類は原種では10種類くらいらしいが、変種や交配種などの園芸種を含めると600種以上あるらしい。その中で、現在日本で植えられているサクラの約8割はソメイヨシノという種類。これはエドヒガンザクラとオオシマザクラの交配種で、それを接木や挿木で増やしていったもので、すべて同じ遺伝子を持つクローンらしい。だから同条件ではほぼ同じ咲き方をする。このソメイヨシノは全国的に広まり、数も圧倒的に多いので開花や満開の指標に使うのに適している。が、悪性の病虫害などが発生したら、日本の8割のサクラが消滅する?という心配はないのだろうか。
ところで、この交配種であるソメイヨシノの発祥は、江戸時代末期の植木職人伊兵衛という人が『染井』という地で作ったらしい。奈良吉野桜と混同を避けるため、「染井で出来た吉野の山桜」という意味か、『染井吉野』と名付けられた。染井という土地は、池波正太郎の鬼平犯科帳にも出てくる、江戸郊外の農村地帯、巣鴨村や駒込村などの地域。万延元年(1860年)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンはこの植木職人の集まるこのあたりを「ここ染井では3~4エーカー(約4000坪)の土地で売り物の植物を栽培している。こんなのは世界でも見たことがない」と驚嘆して書いている。ここは現在東京都豊島区駒込付近。「染井」という地名表示はないが、今も染井通り、染井橋、染井銀座などの名称は使われている。中でも「東京都立染井霊園」は古い墓地で、有名人のお墓も多くある。ここにはその名に恥じないほどのソメイヨシノが咲き誇り、墓所のせいか観光客はほとんどいないので、静かですばらしい桜を堪能できる。ぜひ一度訪れて見ては。
ソメイヨシノの寿命は50年~60年くらいという説があるようだが、きちんと手入れをすれば何年でも咲き続けるという樹木医の話があった。路地に植えっぱなしで、しかも人工的な悪影響を受けていないか。先日の新聞に、枯死寸前になった「樽見の大桜」(兵庫県樽見)という樹齢千年の天然記念物の桜が、樹木医らの努力で今は毎年満開の花をつけるまでに回復したという記事があった。この「樽見の大桜」は地元では『仙桜』と呼ばれており、種はエドヒガンザクラとのこと。なんとソメイヨシノの親にあたるのか。
ところで「昔に比べ最近の桜は白っぽくなった」とお思いの方はいないだろうか。思わなければ結構だがそういう意見に対して解説があった。
①開花から満開までの見る時期に影響される。
・開花時は赤っぽい、満開時は白っぽい、花びらがなくなると赤く見える。
②老木になると白っぽくなる。(普通は若い樹と老木は混在しているはず)
③中高年者は、白内障が進むと霞がかかっているように見える。
以上、「最近の桜が白っぽくなった」わけではなく、おもに見る側に原因があるようだ。
特に、『私達』中高年は決め付けて見るせいで、そう見えるのか。
現に若い人はそういう印象は持たないようだし、実際、昔と比べようがない。
昔と比べても比べなくても、春は桜が咲き誇り、心がときめき騒ぐほうが、やはり嬉しい!(7期生 佐野英二)
秋も深まるというよりもはや冬本番の12月初め、すみだ北斎美術館から隅田川沿い散策と浅草での夕餉を楽しみに、7名ほどの会を催しました。今日の主目的は、開館1周年を迎えた北斎美術館。普段の常設展のほかに、「めでたづくしの開館1周年記念展!!」という、たいへんわかり易いようなわかりにくいような企画展のネーミング。もともとあまり大きくない美術館ですが、今回は普段の倍以上のスペースを使って展示がされていました。
いま北斎は大変注目されている。国立西洋美術館では現在「北斎とジャポニスム」という展覧会も催されており、天才浮世絵師・葛飾北斎がモネ、ドガ、ゴッホを始め多くの西洋美術に衝撃と影響を与え、また作曲家ドビュッシーの交響曲「海」も北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の影響を受けたといわれている。
葛飾北斎(1760~1849)はこの地“すみだ”で生まれ、90年の生涯のほとんどをここ“すみだ”で過ごし優れた数多くの作品を描いた。
すみだ北斎美術館は、昨年(2016年)11月にオープンしたばかりの新しい斬新な建物。展示は北斎の年譜に沿うように作品が展示されているが、説明の多くは最新のタッチパネルで操作して読めるようになっている。創作活動中の北斎と娘阿英(おえい)の実物大のリアルな人形があり、最初はびっくりする。
彼の創作期間は大変長く6歳ころから10代にもかなりの創作をしたようだ。いろいろな流派と関係を持ち、30代のころは琳派の雅号も名乗っていたようだが、40代ころにはどこの流派にも属さないと宣言し独自の道を開いていった。有名な「富嶽三十六景」は70代になってからの作品である。そして「富嶽百景」のなかでなんと、“百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろう”と記したそうだ。凄まじい創作意欲である。
北斎の作品やその生涯に感銘しながら北斎美術館を後にし、近くの相撲博物館や、旧安田庭園の見学に向かったが、日の暮れが早いせいかすでにクローズ。夕闇迫る界隈を隅田川河岸に下り、川べりを散策。地元の小中学生の卒業作成などが壁面にモチーフされてなかなか味わいある道だ。すっかり日は暮れおち、何艘かの屋形船が水面をはしっている。桜の季節や、花火大会の折には、さぞ水面を埋め尽くすほどの船で溢れるのではなかろうか。
江戸時代からずっとそんな風景が繰り返されているのかもしれない。蔵前橋、厩橋、駒形橋をくぐり、吾妻橋に到着。そして神谷バー近くの「蕎麦前つるぎ」で朝〆鴨料理を食し、旨い日本酒と蕎麦を堪能した。北斎に思いを馳せ大川(隅田川)端を歩き、そして浅草での蕎麦喰いと江戸っ子気分に浸った初冬の一日でした(7期 佐野英二)
京都には度々行かれている方も多いと思います。
私も、中学の修学旅行以来、何度か訪れていますが、たいてい市内のお寺見学がほとんど。今回も甲子園でのプロ野球観戦に行き、翌日は京都にでも行こうかということになってました。同行の舎弟(会社の後輩)が、「鞍馬なんか行って見たいけど、階段が多く佐野さんにはムリだと思う」とノタマう。最近、私が駅の階段でもしんどくなっていることを気遣って言ってくれているとはわかっているものの、「なんの!、よし鞍馬に行くぞ!」と牛若丸よろしく言ってしまった。
大阪に泊まっていたので、淀屋橋から京阪電車で京都・出町柳へ。そこから30分ほど叡山鞍馬線にゆられ鞍馬へ。駅前の「油屋」という蕎麦屋で親子丼を食し、階段を数十段登って仁王門(鞍馬山の受付所)へ。もはやその階段だけで、”もう帰ろう”、というほど息が切れている。そこからケーブルカーで5分ほど上る。その険峻なこと。そこの登山道を徒歩で登って行く人たちもいて、たいへんだなあ、などと呑気なことを思っていたことが、実は甘かったということが、後でわかることになる。
鞍馬山は牛若丸(源義経)が遮那王と名乗っていたころ、修行をした山だ。鬼一法眼という武芸の達人に兵法を伝授されたといわれている。鞍馬のカラス天狗達とも修練に励んだのだろう。階段状になっているが山道を歩き出して、20分あまり無言で歩くと、与謝野晶子・鉄幹の歌碑を右にみながら鞍馬寺金堂に到着。仁王門と本殿金堂の前には狛犬ならぬ「阿吽の虎」が左右に座している。虎は毘沙門天のお使いだとのこと。このあたりでもう力尽きたと思ったら、なんと「牛若丸息つぎの水」というところ。自分ごときが息が切れても当然。息も絶え絶えそこをすぎると、「義経公背比石」。奥州へ下る義経が名残を惜しみ背を比べたという石がある。ここまでくるともう戻ることも出来ない。ひたすらがんばって登り続ける。「大杉権現社」、「僧正が谷不動堂」をすぎる。ここらあたりは牛若丸が跳躍の鍛錬をしたという「木の根道」と言われているところ。杉林が鬱蒼と繁り木の根が露出した神秘的な道。金堂をすぎてからさらに登り続けて30分あまり。とうとう「奥の院 魔王殿」に到着。護法魔王尊という人が650万年前に金星から舞い降りたというころ。まだ人類が生まれていないはずだからかなり昔。ここがほぼ鞍馬山の頂上付近。鞍馬寺は770年に鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を祀って創建したといわれている。人影もまばらで、厳かな静けさに囲われた、全く下界から幽閉されているような佇まい。
ここからはほぼ下り。逆から登ってこなくてほんとによかったと思わせるほどな急な下り。と言ってもよっこらしょ、よっこらしょと言わなければ歩けないような下山道。30分ほど下り続け、やっと鞍馬寺西門に到着。やっと道路に出てきた。そこから貴船神社に行くと、鞍馬山とは違いここはかなりの人出。貴船川沿いには川床料理という川の上に床を張ったお店が軒を連ねている。貴船神社のベンチにやっとすわってホッとしていると昨日、今日の晴天が一転、にわかに掻き曇り、驟雨というのか、大降りに見舞われ、山登りで汗だくになったシャツが、今度はズボンまで雨でびしょ濡れ。30分ほど雨の中を歩き、さっき降りた鞍馬駅の一つ手前の貴船駅にやっとの思いでたどり着きました。あとでわかったのだが、貴船神社は雨乞いの社とのこと。
どこか京都のお寺でも見物と思って出かけた旅行でしたが、おもいのほか牛若丸を偲ぶ登山をすることになるとは。でも思い出に残る京都の旅の一日でした。(7期生: 佐野英二)
【Kissの会 Guest投稿 no.3】 『フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン』
投稿日 :
2017年1月8日 投稿者:佐野英二さん
歓喜よ! 美しき神々の火花よ!(Freude! schöner Götterfunken!) ♪ ♬ 、、、
これは毎年年末になると多くのコンサートで演奏される、ベートーベンの交響曲「第九番合唱つき」という曲での最後の歌詞です。第4楽章でソロと混声4部合唱が高らかに歌いあげる、あの有名な「第九」。最近は、市民参加型の演奏会も数多く、私も何度か聴きに行ったことがあります。すばらしい曲です。でも、聴いている時は感動していたのですが、でも、自分が歌うことなど想像もしていませんでした。それが昨年暮れ、標題のように、♪フローイデ♪シェーーーネル♪ゲッーテルフンケン♪と、東京文化会館のステージに立ってなんと自分が歌ってしまったのでした。
ことの始まりは昨年の夏ころ、飲み会で大学の先輩に会った時、俺もやってるからお前もやってみないかという、お誘いのような命令のようなことを言われてたのですが、自分は合唱の経験など全くなく、カラオケもあまりやらない性質(たち)ですが、酔った勢いで(いつもこれで人生失敗している)、つい、やりますと言ってしまった。
さあ、それから大変な日々が始まりました。
参加したのは、今回で「第九」演奏会が128回になる市民合唱団の名門「東京労音第九合唱団」。レベルはかなり高い。指揮者は世界的に活躍している浮ヶ谷孝夫氏、オーケーストラはプロの東京ニューシティー管弦楽団。な、なんだ!8月の最終週から練習が始まりましたが、4ヶ月足らずで本番なの?週3回練習があるのですが、最低1回は参加が義務付けられている。と言っても初めての私にとっては3回すべて参加が必須のようなもの。一回の練習は3時間ほど。発声から、ドイツ語の発音まで細かく指導される。だが発声練習などしたことがない、曲は知らない、しかもドイツ語?全くわからない。加えてなんと本番は暗譜(譜面を見ないで全て暗記すること)???。
ドイツ語の歌詞にカタカナをふって(カナをふってはいけないと言われているが仕方がない)。でも音符と歌詞のどっちを見ればいいのだ?(当然どっちも一緒に読まなければならない。)家での予習、復習のため練習用CDというのがあり、それを何度も何度も聴いて練習した。だんだん歌えるようになって来たが、今度はオーケストラに合わせて歌うのがまた大変。演奏のCDを聴きながら、入るところや曲の流れ、曲想などを覚えていく。本番の10日ほど前になって初めて指揮者との合せ。本番2日前に始めてオーケストラと顔合わせ。プロってそんなものなのですね。1回か2回の練習で本番をやっちゃうのだ。
大変尽くしの4ヶ月をすごし、本番の12月23日を迎えた。私は背が低いので一番前に並ぶにかと思ったら、あんたは新人だからということでベテランに囲まれるような立ち位置。それでも、一流のホールと一流の指揮者とプロのオーケストラと、歴史ある300人の合唱団の中の、わずかに小さな自分ひとり。でも、思い切り歌うことができました。ザイトゥムシュルンゲン、ミリオーネン、ディーゼン、クス、デル、ガン、ゼン、ヴェルトゥ(抱かれなさい、幾百万の民よ、この愛の口づけを全世界に!!!)
シラーの原詩にベートーベンが加筆して作られたという「第九」。日本での初めて「第九」が演奏されたのは、1924年(大正13年)福島県にあった坂東俘虜収容所でのドイツ人捕虜による演奏だといわれています。その後、かの戦争のとき学徒出陣で入営する東京音楽学校の生徒の繰上卒業式で演奏した「第九」を、焼土と化した戦後1947年12月に、あの「第九」をもう一度やろうと演奏されたのが、日本の年末「第九」の形成になったとも。
いま、いつか来た「戦争」への道に戻ろうとする潮流が勢いを増している時勢、世界平和と全人類への愛を歌いあげたこの曲が毎年歌い続けられることが、なお重要な意味を持っていると思う。その「第九」を歌い終わった時は、2016年の自分が燃え尽きた瞬間でした。(7期:佐野英二)